日本列島は周囲が海で囲まれていて、南からの海流が日本列島を挟み込む形で流れている。特に日本海側に流れる対馬海流は、日本文化を育て上げたと考えています。古代社会を考える前に、日本列島に住む人々が海や河(川)、或いは湖沼等の水運をどの様に利用したかを考えて見たいと思います。
MHKの歴史大河ドラマ「義経」は無事に終った様ですが、あのドラマは恐らく、通俗小説の「義経記」等も参考にしたに違え有りません。この義経記には江戸氏が出て来ます。
これは、頼朝が三浦半島に逃れた後に大軍を引き連れ、武蔵国に入ろうとしますが、大日川の手前で足踏み致します。義経記の中には「江戸氏は東国八ヶ国の大福長者」とも呼ばれていますが、江戸氏は江戸湾を根拠地にして交易で栄えた有力者だったのでしょう。江戸氏の後背が気になり、敵前上陸を躊躇ったと思われるのです。結果的には江戸氏も頼朝方になりますが、江戸氏が江戸湾を利用して大福長者になれたのがわかります。
時代が下りますが、平将門が関東平野を席巻し、新皇を名乗れた背景には、霞浦や周辺の湖沼の交易権を押さえ、次第に国衙を凌ぐ勢力と財力を貯えたからとも言われています。将門研究が深化した現在、この説が有力化して「湖水の疾風」等の題名で小説等もでています。将門の活躍した地域には川や湖沼が多く、鹿島神宮や香取神宮等も有り、この神官
達も将門の勢力圏に組み込まれていたようです。神官達は中央との結び付きも考えれられ
交易には何かと都合が良かったのでしょう。
さらに時代が下がりますが「謎の継体天皇」と呼ばれる研究が盛んですが、この天皇の勢力基盤は越前国三国地方と思われます。この地方は若狭湾から石川県の能登半島に勢力を持った豪族達の、経済的な基盤を背景にして誕生したと思うのです。継体天皇の勢力の源は、対馬海流を利用した海洋集団で、海を我が物として対岸側の国から、先端技術を運び込み、天皇に推戴される人物まで輩出したのでしょう。ものの本によっては、継体天皇は外国語にも堪能で有った等と書かれていますが、それはペンの走り過ぎでしょう。いずれにしても、若き日の継体天皇が対岸側の国を往復する事が有ったかも知れません。
以上の概略から、日本は如何に水運を上手に利用した来たかが、わかるのですが、確かに古代の官道としての交通路としては、陸上のみに目が向きますが「調、庸」等には海上路が禁止された事に有るのかも知れません。禁止されたと言う事の裏返しには、盛んだった事も意味するかも知れません。
香取文書には「海夫」とみれる文書がみれますが、日本海側では「海人」と呼ぶそうです。大阪湾から瀬戸内、九州等に掛けてもこれら海や河、湖沼等を利用した集団が多数発見できるかと思います。

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