東北地方沿岸部は早くから、古代製鉄遺跡群が、多数地下に眠っている事が知られていたが、最近の地域開発途上に発掘され、研究成果が発表されている。古代製鉄場は「たたら」とも呼ばれるが、これは私にも少なからず語る資格が有る。
マルクス主義者として有名な志賀義男がいて、彼は「タタラ語源」なる研究書をものにしているが、これを知った柳田国男が「共産党員の人が何故こんな事を書くのか。」と訝ったそうで有る。柳田国男にしてみれば、自分の縄張りに入って来たのが共産党員では、何か納得がいかなかったに違え無いが、これにはワケが有るのですが、ここではCUTする。
生家の屋敷内には小川が流れていたが、この小川は地域住民の生活の根源で、この小川の水を巧みに利用して生活して来たが、子供達にとっても格好の遊び場所で、小魚(カジカ、ヤマベ、八目ウナギ等々)や蟹を捕まえたり、夏は水浴びの場で有った。この小川の中の大小の石に混じって、握りこぶしよりは小さくて黒く、表面に穴だらけの石が見られた。色が黒いので見つけるのは容易で有るが、これが「金子石、カナゴイシ」と呼ばれ、たたら炉で鉄を作った時に出る残り滓(カス)で有る。地方によっては「星屑石」や「金糞石」等とも呼ばれる様です。この金子石が残っている事は、この辺に「たたら炉」が有ったなによりの証拠で有って、興味が尽きない。
たたら炉は「踏鞴」とも書き、これは現在では、歌舞伎のたたらを踏むの意味に使用されているが、たたら炉に風を送る鞴(タタラ)が皮袋で出来ていて、これを足で踏んだので踏鞴とも書かれた様です。また、たたら炉を「高殿」とも書く事が有りますが、中世期になるとたたら炉には屋根を被せた木造建築物が出来たから「高殿」とも書いたのです。ここで、面白い「タタラ」の語源を紹介すれば、タタラはタタール人と同語との説が有り、すなわち製鉄技術は、中国南部や朝鮮半島経由では無く、北方からの伝播とするもので、この説は頑張りが効く様で有る。中国北部からロシヤ東部には、実際に「野たたら」と呼ぶ鉄鉱石を大きな焚き火の中に入れて、鉄に還元する方法も有るらしい。
東北地方沿岸がなぜ製鉄産地になったかは、原料の砂鉄とたたら炉で燃やす、熱源の森林に松や栗及び木炭の原料の雑木が多く産出したからで有った。たたら炉を経営するには「砂鉄7里に炭3里」と呼ばれ、これは砂鉄は7里離れても良いが、炭は3里以上離れては運営出来ない事を表している。また、たたら炉の構築には「窯を作るための粘土」も重要で、この粘土も豊富で有ったから、たたら炉を設けるには適地で有ったのだろう。
この様に、たたら炉の適地で有り、供給地としたのはわかったが、需要の方が良くわからない。しかし、この地は古代には行方(ナメカタ)と呼ばれ「行方軍団」が有った事が知られている。行方軍団の規模や役割については史料が無いが、蝦夷征討軍で有ろう。これを正解とするならば、征討軍の武器や武具、馬具等々の供給基地かも知れない。或いは征服地の建築資材、仏像作成用として使用したかも知れないと思うのです。
この地方出身の文芸評論家の荒正人は「第二の人生、負け犬」等で知られているが、彼の「東アジアの古代文化 18号」に依った対談によれば「私の家系は安羅族(アラ)で、日本へは安羅国からやって来て、3代前は鍛治屋でしたと話している。このアラ族は福島県の沿岸部から宮城県東南地帯に多い姓なのです。いずれにしてもこの地方は、製鉄とは関係が深そうで有る。戦国時代には隣国伊達家と、血の抗争を行ったが、鉄の供給量で勝ったと主張した者もいるが、真偽を証明するものは未だ出ていない。
注-1:行方軍団は弘仁6年(815年)頃に存在した。
注-2:炭焼き小五郎が事 柳田国男著

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