江戸時代に於ける利根川は物資の輸送ばかりでは無く、江戸文化の伝播道でも有った様です。ここで常総と呼ばれる地方の、江戸時代後期の俳句文化に限って言うならば、利根川を介して江戸俳諧が運ばれて、その勢力圏(縄張り)に組み込まれたようです。すなわち俳句の宗匠達の生計は「歌仙」や「点料」で有ったから、利根川筋を利用して各地に下りその権威を高めると共に自派の勢力を拡げていったのです。ただ、お互いが仁義を守り他地域への浸透等には注意を払った様です。
文化8年(1,810年)6月に、小林一茶が下総国守谷の地に来た時も、利根川筋を利用して来たらしく、小菅川から榎戸に降り立った事が記されている。一茶は「山口素堂」の葛飾流に属し、素堂は「目に青葉山郭公初かつお」を詠んだ人で、その縄張りは下総地方で有った。守谷に一茶を案内したのは幕吏の「桜井芭雨」で彼も俳句の宗匠で有ったが
縄張りは鬼怒川筋に有ったとされていて、この為かどうか、一茶は鬼怒川筋には足をいれていない。一茶は奇行の多い人でも有った様で「乞食首領一茶」等と自らも称していたようです。
蚊の声や将門殿の隠し水 芭雨(一書に一茶詠が有るが誤りで有ろう。)
江戸時代庶民は俳句と狂歌を好んだと言われ、大衆文芸として人気が有ったが、普通は老人や経済的成功者の遊戯では有ったのだが、利根川筋を介して地方に伝播されると、地方の商業地区の旦那方、有力地主層や僧侶等を始め、字の読み書き出来ない者まで巻き込み隆盛を極めている。句会等においては、字の読めない書けない者でも連座の中に混じり字は書いて貰ったそうで有る。また、月に一回は句会を開いたが、誰でも参加出来て、その日に備えて予め自分の句を投票して於き、優秀作品には賞金も出た様です。この様な活況で有ったから、後には堕落した俳句等と言われ、明治期に入ると正岡子規による俳句分類等が始まった様です。
私は俳句の鑑賞眼を持たないが、何人で有れ、心に感じたものを自然に素直に詠ったのは全て良しと言う考えで有る。下記は怪しげな俳句と酷評されたもので有るが、遺族の方は現存して居ますので姓名は伏せておく。
あかぎれが痛むと母の便りかな (マルクス主義農民運動家)
注:守谷志 斉藤隆三著 茨城県守谷町 平成2年復刻刊
注:一茶と守谷 岡野博著 筑波書林 1980年刊

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