常陸風土記の編纂時期については凡その見当はつき養老3年(719年)頃と推定される。この時期の常陸国守は「藤原宇合ウマカイ」で彼は当時の一級文化人であった。藤原不比等の第三男として生まれ遣唐使として唐朝に渡り最新文化を吸収している。彼は経書を学びたいと望み、旧唐書には玄宗皇帝の指示で四門助教に学んでいる事が確認出きる。
風土記は朝廷から和銅6年(713年)に風土記編纂命令が出されて、国衙(県庁)の長が担当した。この編纂に当たっては有名な
土地名には二字でもって佳字をつけよ。が出されている。その他に要求された内容は金銀、草木、動物、魚、虫名等々、土地の地味、肥沃の状態等で有り、その他には山川や地名の由来及び古老からの昔話を書き記す事が求められた。
これらの要求に対し山川の地名由来や古老の昔語り等は編纂者の主観による脚色まではゆかないが編纂者の見解による解釈が入っていたに違え無い。有名な
夜刀の話は反面教師的に村民の教訓にしたに違え無い。常陸風土記にはその土地に伝承された土地神を人間が屈服させる話が多いのですが、これらはいかにも儒教的で有って合理的で有る。折口信夫によれば常陸風土記は「中国の夢を見ている様だ。」との見解が有るが卓見で有って、編纂者の一貫姿勢は儒教によって保たれている。藤原宇合は得意の健筆を揮い格調高い美文調で編纂したのだろう。
古代の地方行政組織は朝廷から派遣された国衙の長官の下に各郡が有って、この郡の長は普通は国造(クニノミヤッコ)が大領として君臨していた。(先代旧事本紀巻十、、国造本紀)この国造はその土地の古くからの豪族で有って国が誕生した時からその土地の権力者で有って、政治、経済、軍事、司祭等々を掌握していたので有る。恐らく祖先を敬い農耕神等の一切を取り仕切っていたに違え無い。ただ石川県羽咋地方の「羽咋国造」等は海を生活の場としていたから「渚の正倉院」と呼ばれる海への祭祀場が有り、国造の役割も地方によっては異なるが、常陸国は「常世の国」とも風土記に有り、この常世思想も中国より伝来したもので有る。
常陸国は当時の朝廷からは距離があり、東のはずれに有る辺境地では有ったが租税高は全国第二位の位置に有って重要国で有ったらしい。この様に開けた国になった理由には「鹿島の地」が考えられる。鹿島には「鹿島神宮」が有り鹿島神社では無い事に注意が必要で、これは皇孫を敬っている証しで有るが、その位置するところは海に近く海上交通路の重要路で有った。朝廷による東国支配はこの鹿島神宮を拠点として進めたので有ろう。防人の出発時はこの鹿島神宮に一旦集合してから辺境警備に向かったと言われます。また、朝廷の陸奥への北上には産鉄族と共にこの鹿島地方から進んだと考えられる。
いずれにしても常陸風土記には儒教の影響が大きいと見るし、この儒教は陸奥開発等にも大きな影響を及ぼしたに間違えが無いだろう。なお中臣氏(藤原)と鹿島神宮とのつながりを強調する者が多いのですが未だ研究した事が無い。研究成果があれば教えて欲しいと思っている。
上記は「茨城県史原始古代編」及び「新注皇学叢書第一巻 物集高見著」等によったものです。また「国史資料集第一巻 龍吟社 S18年刊」には大きな示唆を受けた。

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