寧波港(ニンポー)は古来から日本と中国の交易時の表玄関になっていたがなぜ寧波港が表玄関になったのかもっと詳しくプログに紹介せよとのメールが中国の友人から入って来た。奇異な要求では有るが下記に寧波港ついて記してみるので参考にされたい。
揚子江(長江)下流一帯は中国の一大穀倉地帯で有りこの地が豊作で有れば中国国民は全て飢える事は無いと言われた程に豊かな地域で有った。現在でも上海から道路で蘇州市や南京市まで車を走らせると田園の中に見る家々の立派さには驚かされる。(あの屋根のつくりに富の象徴が有るのでしょうか。)下流一帯はまた中国歴史上から見ても手工業や商業やそれらに関連する諸産業もまた盛んで有ったのです。古くは呉国で日本の和服の呼び方に呉服(ゴフク)が有りますが貴国の呉を頂戴しています。
中国の船は和船とは違って底が尖ったジャンクと呼ばれる深海を帆走出来る特徴を持っていて且つ船倉は箱で仕切られて密閉され外洋帆走が出来た特徴がある。さればこそ明朝時代には大船団を組みアラビア方面まで遠征した偉大な航海者の鄭和等が生まれたので有ろう。この大航海が継続発展すればアジアの歴史は違った展開をしたと思うのです。
今中国沿岸部を俯瞰するなら揚子江を挟み南北に分けてみて日本側から見ると歴史的には南側の沿岸地帯との繋がりが多い様です。もちろん我が日本は朝鮮半島や渤海国との交流も有りますがこれは貴国とは違えますので省きましょう。香港の方から眺めて見ると香港は港として立地条件の良い場所では有りますが世界的な交易港になったのは阿片戦争以後の英国に割譲された以後の事です。順に北に遡れば潮州、アモイ、泉州、福州、温州、台州、舟山、台南等々は港としての立地条件を満たしていたようですが富の中心地で有った揚子江沿岸からは離れています。つまり後背地が不足していたわけです。
揚子江(長江)の河口付近は揚子江からの汚泥が堆積して浅くジャンクは座礁の危険が有って溯上できませんでしたので杭州湾が脚光を浴びるのです。不幸な事では有りましたが日本軍も杭州湾から上陸作戦を採用しました事はご存知かと思います。この様な状況で有りましたので揚子江デルタ地帯で産出される物資の積み出し港としては寧波港が最適で有ったわけです。
寧波港は杭州湾より甬江(ヨウコウ)と呼ぶ河川の河口からかなり奥まった場所に位置していますので地図で海岸線を探しても見付ける事が出来ません。寧波港からは更に河が二つに分かれていて余姚江と奉化江に分かれます。これらの河からは水路をめぐり中国内陸部の城市に行く事が出来ます。寧波港の開港はかなり古く821年頃だったと言われます。従って日本国の誕生以降沢山の船が押し掛けています。日本が貴国から学んだ物の多くはここが窓口となった事は疑え有りません。(但し、江戸時代には対岸側の乍浦港らも有りますので忘れてはなりません。)
寧波の地名は明朝時代になってからのもので始めは(唐朝時代)明州と呼んでいます。これは西側の方に聳える四明山から一字頂戴したかと思われます。しかし杭州市に遷都した南宋時代には年号から採った慶元府に改めまして元朝時代には慶元路に変わっています。
さらに先ほど述べた様に明朝時代には太祖が「海が定まって波は寧し」から寧波と命名したと言われます。恐らく元末期頃は乱れた世で有ったからこの地は海賊に早変わりする海の商人達も多かったのでしょう。寧波港は海岸より奥まった場所で海水では無く真水の港で有った理由については、我が国の作家で司馬遼太郎氏の解説では船食い虫の被害から船を守る為とも言っているがそれも理由の一つかも知れませんが、しかなんと言ってもこの寧波港からは中国各地への城市部に水路を使用して交流出来るのが最大の理由だったと思うのです。
以上の様な内容では如何なものでしょうか。なお更に詳しくは中国人民雑誌等のDVD版等が出ているかと思いますのでご覧下されば理解は深まるかと存知ます。

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