中国滞在中に友人が何処からか十三経註疏の新刊本を入手してきて盛んに私に見せびらかす。古い昔のままのでは無く簡体字版で有るからいささか私も驚いた。十三経註疏とはご存知の様に儒教基本経典群の本文で有ってこれに古い注釈(伝)を加えて註となり更に註に注釈を加えて疏となるので有る。
簡単に言うならば経に対し注釈が有ってその注釈に更に注釈が有るのです。普通これは訓古学と呼ばれ歴史的にはかなり古く漢王朝時代から見られるのです。もちろん日本にも多量に入ってきまして日本国見在書目録にも多く見付ける事が出来ます。
この註疏は絶対丸暗記すべきものこの註疏は違うのでは等と疑問を持ったり批判したりするのは禁じられていたのです。この様な内容のもので有って古いもので有るから十三経註疏の研究者等には貴重では有るが一般人には無用のもので現在中国では余り価値を見付ける事は出来ないと思うのです。簡体字で刊行した理由は良くわからないが共産主義体制で有るから何か目的が有ったのだろう。儒学を広く知って貰い国民の倫理規範を目指したのだろうか。はしゃぐ友人に対しては「今の中国には徳目を学ぶ必要が有りますね。」皮肉を含めて答えておいたがお金持ちになったので精神的に余裕が出来たのが原因で有ろう。十三経註疏を含め評価は時の政治によってコロコロと変わりウッカリ儒者気取りでいると虫けら同然に扱われる時も有るから注意は必要なのです。
この十三経註疏に対する批判や研究は禁止されたと先ほど述べたがどの様なものでも時代と共に変化しなければ生き抜けないから永い間には賢い者が出て時代に迎合して改訂したり不足してるところは追加等している。従って十三経注疏の内容は少しずつでは有るが変化はしていたのです。しかしながら宋王朝時代(コレは南北有るが)になるとかなり古臭く全く役に立たないものになって来たのです。
大きな原因としては宋時代になると経済の発展によって国民が豊かになった事が有ると思うのですが、またそれまでの儒教には仏教に見られる様な論が欠けていたと思うのです。つまり儒者が何か説いたとしてそれに質問が出た時にはそれに対して理路整然と明確に答える必要が有るのですがそれが欠けていたのです。外部の者からチョット指摘を受けてオタオタしてる様では防禦にもならないし宣伝にもならぬだろう。この論は仏教では良く完成されていて彼の唐時代の三蔵法師は論争では天才的で有ったと言われヘンな質問ではたちまち論破されてしまったと言われる。
こんな儒学では有ったが宋時代になると儒学の論を完成した大学者の朱子が現れる。中国の新たな歴史はこの朱子によって完成したと私は思う。つまり古代社会からの脱却はこの朱子が現れて始まったと思われる。日本の歴史に例えるならば古代貴族社会から関東の武士団社会に移動した様なもので有ろう。朱子はよほど仏教研究もしたと思われて儒学の論の部分には仏教を取り得れている。この仏教を取り得れた事で儒学は漸く思想的な体系を持ったので有って朱子学以前のものは道徳教養の教科書と言うとまた叱られそうで有る。
どの様に変化したかの概略を示せば宋時代以前には家族とか政治の礼教だったのですが朱子はこのべース上に宇宙論や形而上学(存在)を載せたので有った。これについては別項を設けるが朱子はまた優れた教育者で有った事も追加しておかねばならない。
現在の日本では大学入試は受験科目が選択出来これに力を入れてその他の科目は殆ど返り見ない。従って学問としては偏向されて精神もまた偏り勝ちで有る。教育が原因の事件ほど悔やむものは無い。中国に於ける科挙試験もその傾向に有りそれを憂えた朱子は本当に学問したい人の為に白鹿洞書院(ハクロクドウ)を作っている。また教科書等も易から難に進める様に工夫をしている。小学と呼ぶ中国古典書を見る事が有るがアレは朱子の方針でお弟子さん達が編纂したものなのです。
この様な朱子学で有っても時代の変化で更に古くなってしまう。特に世界が農業を産業の中心にした時代から工業に軸を移動した時の変化には追随出来ず遅れをとってしまったのです。冗談では有るが中国や李王朝等はなぜ周易の八卦を立てて将来を占って見なかったのか私には不明で有る。王宮の奥深くには八卦の秘伝や確立の高かった卦に対しては大切に蔵していたはずなのです。コレはあくまでも開玩笑でゴザイマス。

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