平将門の平氏の出目について若干の疑問点が有る。普通良く見かける将門の系図には桓武天皇の第3子が葛原親王と言われ母は多治氏で有った。この親王の事跡については文徳実録等の国史類で確認する事が出来る。この葛原親王には兄弟も多く平城、嵯峨、淳和の3天皇がいて、それ以外にも30数名の皇子と皇女が知られている。この様に子宝に恵まれた葛原親王では有ったが、何故か子は高棟及び高見王の2名しか知られていない。
現在は少子化時代とも言われ、子供二人も有れば十分では有るから特別異とする事は無いだろう。葛原親王の子の高見王は、無官無位だったと言われ25歳で亡くなっているが高棟王の方は平朝臣姓を名乗る事を許されて公卿補任にも載っている。次が平高望と言われ関東平野の常陸国に下り、勢力を拡げたと言われるが果たしてそうなのだろうか。
さて、茨城県鬼怒川の右岸で筑波山に近い地域(下妻市)には宗道神社が有る。宗道神社とは、後3年の役で源義家に敗れた安倍宗任を祀った神社で、陸奥地方の安倍氏が何故こんな場所に祀られているのか不思議で有るが、実は安倍氏は蝦夷と呼ばれた朝鮮半島からやって来た渡来人一族なのです。恐らくこの地にも安倍氏に繋がる一族が多くいて、敗れたとは言っても祖先で有った英雄を祀っていたに違いない。
源義家の副将軍に下総守文室漢麻呂がいて、彼の祖は渡来人の平群氏で有った。この渡来人の平群氏一族と、先程の葛原親王の子で有った無官無位の高見王とは系図上の同一人物では無かったのか。
つまり、系図上でのみ同一人物で有って、関東平野に来て開墾開拓した人物とは将門と争った渡来人の平高望では無かったと思われる。
以前地方史で発表したが、朝鮮半島から日本列島に渡来人としてやって来た者は、日本の言語や風土や習慣に馴染ませる為に、一定期間囲いをした場所に集めたと言われる。これは室町時代の興福寺文書の大乗院寺社雑事記にも見られ、三条坊門鳥丸囲地生まれの者は
平姓を賜る事になったに見られるのです。
平氏と名乗ったのは、桓武天皇が平安京を建設したので平姓を賜ったとする解釈が多いのですが、
桓武天皇の平姓と関東平野で野山を開墾開発した平姓を名乗った渡来人とは同一人物では無いと思うのです。従って、関東の英雄平将門と後に桓武天皇の血筋とした平氏とは異なる様なのです。
日本の歴史は渡来人達が多くの先端技術を持って来て、関東平野の地を開発開墾した事が多いのです。それを裏付ける証拠は探せば幾らでも有るようです。また、日本書記にも「一書曰く、一書言う、旧本曰く。」等が多く見られるが、その多数の引用とは何を指しているのか良くわからない。引用ばかり多くては国史の権威も落ち着かないだろう。

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