旧主家のスキャンダルを書けば、世が世ならば、お手打ちになるかも知れない。従って書くのは勇気が必要で有るから、現在でもこの事件を真っ向から取り組んだ本等を、見掛ける事は少ないのです。
事件とは、ナニモカモ幕末の旧主(殿様)が精神を病んでいた事によって始まった。旧主の名を相馬家24代の誠胤公と呼び、嘉永5年に生まれ明治25年に亡くなっている。妻は松本藩戸田家から迎えている。同じ子爵家同士の結婚で、当初は恵まれた仲良い夫婦で有ったと言われる。それが誠胤公の突然の発病で全てが暗転してしまうのです。
大名のお家騒動には敵役が必要だが、この名を「錦織剛清」と呼び、これも世が世なら殿様には、お目見え出来無い全くの軽輩で有った。この様な軽輩でも、明治の世は有り難いもので言論の自由が有り、嘘八百を並べても訴訟と言う手段も有ったのです。
錦織剛清が当局に話した内容はこうである。誠胤は精神異常者では無く、これは家令の志賀直道らが、相馬家の財産を横領し、前藩主の充胤公の妾(西山リウ)と私通し、わが子の順胤(誠胤公には異母弟がいた)を世継ぎにする為の仕組んだもので、直ぐ座敷牢から出さなくては為らない。こんな話しは江戸時代の、お家騒動をそっくり写した様な話で有るが、世間はこの騒ぎに欣喜として喜んだので有る。
ここで志賀直道が登場するが、彼は小説の神様として知られる志賀直哉の祖父である。志賀家は何時の頃から、相馬家で頭角を現して重臣として仕えていたが、直道の時代には家令となり、足尾銅山に投資をして莫大な利益を相馬家にもたらしている。(足尾銅山と古河市兵衛については別本をお読み下さい。)
ここで明治のジャーナリスト黒岩涙香(周六)について触れるが、涙香は「萬朝報」の社長で有り、この相馬事件を大スキャンダルとして扱い、発行部数を大幅に伸ばしているが
涙香の筆致は、相馬家の悲劇など(誠胤公の精神病)ものともせず、金儲けの為に囃したてている。その他に当時の自由新聞等も同様の様で有って、興味半分の誤った記事が読者を、日本をあらぬ方向に導く様である。(現在の週刊誌等もその危険が有りそうです。)
さて、相馬事件の終末は官憲の調査が進み、公判によって全て、事実無根と決定したのだが希代の詐欺師錦織剛清は牢獄につながれて惨めな最後を遂げるのです。
この相馬事件には、宮家の東久通世喜伯や後藤新平等々錦織剛清の嘘八百を信じたのは不幸な出来事であった。また、星亨等は相馬家の弁護側では有ったが、これも世論から袋叩きに有っている。
いま、相馬事件を振り返えれば、全ての始まりは誠胤公の精神病に発っしているが、妻を激打したり、妄想のうわ言、白刃の振り回し等々、常人の振舞えでは無かった。恐らく父親の充胤はわが子の姿に涙を流し、已むをえず座敷牢に入れたので有ろう。
註:萬朝報(復刻版)は、日本図書センターで閲覧出来ます。
註:不思議な事に錦織剛清には「闇の世の中」と呼ぶ相馬事件の本が有る。
註:真相を書いた本には「半谷清寿」の相馬事件実相論が明治26年に出版されている。
註:志賀直哉全集には「祖父等」の項で、有相馬事件にも触れています。
その他、相馬旧臣事務所から明治26年に「青天白日相馬実伝」が有ります。その他、キワモノ小説等も有る様ですが読んだ事は有りません。相馬事件の関係者子孫の方達も居ると存じますが、タメにする為に書いたのでは有りません事、ご理解下さい。

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