徳川時代末期は既に経済が破綻し、外圧も迫っていて、既に明治改革は目前で有った。これは明治時代への助走期間と呼ぶべきであろう。明治期は約44年間有って、日本も西洋文明の仲間入りを果たしたが、これには清朝のモタツキが大きく影響していると思われるのです。すなわち清朝の封建社会は
大正元年まで保っていて、新しい中国の萌芽期では有ったから、内部では何かとゴタゴタが有り、日本も列強諸国に伍して地の利を得たのです。
このような史観で見れば、大正時代の14年間とは昭和期への助走期間と見れば良いだろう。最近は昭和史の本も盛んに出版されていますが、昭和時代が我々の脳裏に深く刻み込まれたのは、日中戦争と日米戦争による心の傷痕で有ろう。もちろん戦後の脅威的な経済的な復興も特筆しなければならないのです。
いま大正時代の14年間を振り返れば、日中間には息詰まる様な緊張が有って、その緊張の糸が切れた時から、日中間の戦いは始まったと言っても良いだろう。
大正元年とは清朝の滅亡した年で有って、孫文が南京政府を樹立し臨時大統領に就任した時で有る。大正2年になると袁世凱の大統領就任が有って、早くも孫文は日本に亡命している。大正3年には第一次世界大戦が始まり、日本もドサクサに紛れれて(英国からの要請も有る)山東省の青島を占領している。大正6年にはロシア革命が有り、後にはシベリヤ出兵が有るが、ナント言っても日本にとって重大な事は、中国に対し21ヶ条の要求をした事に有るだろう。これ以後の日本は対中国への軍事傾斜が始まり、戦争に突き進んで行ったのです。
つまり大正と言う時代は、昭和への助走期間で有ったのですが、この大正時代をユックリと歩んだならば、昭和と言う悲惨な時代に進む事は無かったのです。例えば昭和3年に「田中上奏文」なる偽物が出て、この偽物文書が日中双方間で一人歩きして、現代でも生きているのです。この様なインチキな文章が出回るのは、あんな不安定な国に絡まる過ぎたので有って、当時の日本の採るべき姿は、満州以外は手を出さない様にすべきで有ったのです。満州のみを租借すれば充分で有り、それ以外は欧米に委ねれば良かったのです。
過日、田中上奏文関係の複写版を中国の友人に見せて頂いたが、中国文の様でも有り又日本文でも有る様で、意味不明な部分が多い長文で有った。当て推量で言うならば日本人が書いた物で、売る目的で書いたもので有ろう。著者は日本人と思われる。いずれにしても田中義一首相のインチキ上奏文が、書かれる様な世相で有った事に問題が有るのです。
現在の北の将軍様国との付き合い方も同じで有るが、こちらは守りを固めてジッと待てば好いのです。近付けば火の粉を浴び、火傷するに決まっている。

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