常総地方の古墳群は何れも河川や湖沼等の水域に臨む景勝の場所に有る様です。現在は耕地で有っても、地形の姿形を良く観察すれば古墳の有る場所などは凡そ推測は可能な様です。そのヒントは水辺と言う事に有る様です。惜しむらくは工業団地や新興住宅地等で、古墳と思われる場所は、ブルで荒らされて原形を止めない姿になってしまう事に有る様です。過日、古墳群が残る地域を見学したら、新興住宅地域として建設業者が入っていた様です。
いま鬼怒川の上流に向かって左岸側で、台地が凹んだ形に開かれた水路状の形跡が有れば、其の先端は生活の場として有利な場所で有って、古墳などの遺跡を考える必要が有るのです。事実、考古学者の古墳探しとは、その様な場所を見付ける事が大変上手なのです。
さて、日本に稲作が入ったのは紀元前2〜3百年前の頃とするのが一般的で、学者間でも共通の認識に為っている様です。恐らく朝鮮半島の南側に住んでいた者達が、何かの事情で追われ、日本列島の北九州地方に逃げて来る時に、先端技術と共に持ち込んだものなのだろう。
この稲作とは人と人との係わりに重大な影響を及ぼしたと思われるのです。恐らく水田の管理保全等には共同の作業が必要で、ここに村人の結束が生じ、村の夜明けが始まったと思うのです。その村の発展途上に於いては、より大きな集団が作られて、やがては有力な豪族に支配され統合されて行ったと思うのです。その有力豪族の墳墓が古墳で有ろう。
この有力な大小豪族に支配され、
政治集団化して行くのがクニへの発展する姿に違え無いのです。
日本がヤマト朝廷として統一され始まったのは、ほぼ紀元350年頃かと思われる。東国と言われる、茨城県常総地方等が統一されたのは5世紀前後の頃かと思われるのです。
埼玉県の稲荷山古墳から出土された有名な鉄剣の銘文は、恐らく東国のヤマト国家に対する服従を表しているに違え無いが、倭王武が中国の宋と言う国家に対して出した上奏文には「
祖先自ら甲冑を着けて山川を跋扈して休む暇も無い。東に毛人を征する事が55国に及び、、、」と有りますが、これは未だヤマト朝廷に服従しない群小のクニが有る事を示しているのだろう。
恐らく常総地方の古墳群とは、ヤマト朝廷へ服従した証しとしての古墳造成かも知れないし、或いはヤマト朝廷からやって来た官人達の墳墓かも知れないのです。
常総地方で活躍した
平将門の古跡を追っているが、常総地方が将門一族によって農業、馬牧、製鉄等が行なわれ成功し、やがては坂東八カ国も席捲した背景には、都からは後進国と呼ばれた常総地域にも、古墳時代に傷痕を残す、先人達の伝統が残っていたかも知れないと思うのです。

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