写真は「新編常陸国誌」と呼び、書かれた年代は江戸期で有るが、常陸国誌と呼ばれるように全国区の国誌では有りません。常陸国とは現代の茨城県霞ヶ浦地方とか筑波山麓地方を呼んでいるのです。なぜ将門と関係あるのかと言えば、将門の敵方で有った平一族や源氏一族が、この辺一帯を開発開墾し古くから住み着いていたのです。
霞ヶ浦地方には鹿島神社があって往古より開発が進んでいた様です。大和朝廷の官人が東国にやって来て「常陸風土記」を書き残し、常世の国と称えたのも常陸地方で有ったのです。また筑波山麓は山麓からの清水が湧き出て水に不自由が無く、筑波山は風を遮り年中温暖な気候だったのです。従って耕作地としては恵まれた地方で有って、豊穣の地で有ったわけです。
一方、将門の本拠地には小貝川と鬼怒川が流れていて、堤防も無かったから雨季や台風の季節には常に氾濫が有って、この地帯を
「乱流地帯」と呼ぶわけです。ただ河川や湖沼は交通運輸や漁労等には適していた様です。また上流からの土砂は微高地を作り出し耕作地も形成した様です。
将門の本拠地で、有利な面は湖沼の三面を区切って、一面を入口とした馬の放牧場が出来る事に有った様です。一般的に見て放牧生産は農業生産に比較して
「生産性」は高い様で将門の富の源泉は「馬」と「水上運輸」に有った様です。
さて新編常陸国誌には筑波山麓地方の、将門の敵方についての平一族の記述が見られる様です。従って将門古跡を考えるには有用な様です。編纂者は塙保巳一の高弟の常陸地方出身の「
中山信名」で有る。
塙保巳一は群書類従で知られるが、中山信名もこの編纂事業に関わったらしい。常陸国誌は膨大な資料で有るから中山信名から土浦の
色川三中の手に渡りここでも修訂等を行っている。
なお新編と有るのは財団法人宮崎報恩会が復刊した事に有り、発行所は常陸書房が初版本として昭和44年に出している。

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