将門が貞盛及び秀郷連合軍に敗れ坂東市の北山で最後をとげたのは天慶3年2月と言われる。乱の原因になったのは女論とか土地争いとか言われるが、この当時の気象現象を調べると毎年の様に旱魃が有った様です。
瑞穂の国は稲作が国の経済根幹を成していたから、米が不足すれば租税収入が減って貴族階級は贅沢も出来ず、多くの人々にも多大な影響を与えたと思うのです。気象現象の変化が戦争に大きく影響を及ぼしたものに、清盛と頼朝の源平合戦が有るのです。頼朝が鎌倉開府した直後、大軍を卆えて富士川で平家軍と対陣したが、水鳥の羽音に驚いた平家軍は戦わずして京に逃げ帰ったと言われるのです。
しかしながら、この当時の畿内地方は深刻な旱魃が発生し、平家方は戦争を始める時では無く、多くの将兵は飢えに苦しんでいたと言われるのです。平家方が敗れたのは頼朝軍にでは無く食糧難に負けた様です。腹が減っては戦が出来なかったわけです。
さて手元に有る「米価の変遷」によれば、天慶5年の米価格は「米一升、十七八文」に高騰したと言う。この高騰とは延喜9年には一升三文で有ったから6倍に跳ね上がっているのです。その原因は天慶2年以降頻繁に飢饉が有ったからだと史書は語っている。
この旱魃とは翻刻歴史史料叢書「日本旱魃霖雨史料」によれば将門が京から坂東に戻ったとされる延長から承平及び天慶3年(923〜940年)までは毎年の様に日照りが多く雨が少なかったらしい。例えば日本高僧伝要文抄等によれば「一昨日雷公発響.僅両三声」と有って、雷の音は聞こえたが僅かに3回しか聞かなかったと有ります。この様な天災が起これば貴族達のなすべき事は神や仏に祈るばかりで有り、坊さん達に盛んに祈祷を行わせているのです。もし降れば私の祈祷が通じたと威張るのに違えない。
将門の本拠地とされる地域は鬼怒川や小貝川の乱流地帯で有って、日照りが有っても水の心配は無く、一方将門の敵方の叔父達は筑波山の麓で有り、水が不足していた為に水戦争が争いの始めでは無かったかと思うのです。ただ争いは一事では起こらず複数の原因が有るから女論や土地争い等も絡まっていたかも知れません。
何れにしても、将門時代は雨が少なかった事は史上ではっきりと分かるから、これらも乱の原因の一つかも知れないと推測するのです。識者皆様の意見は如何に!

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