元蒙が襲来した時「神風」は両度とも吹き神国日本を守ったと言われる。いわゆる皇国史観の始まりで、後になってこの皇国史観が日本を狂わせ、太平洋戦争にまで突き進んだので有る。
さて元が日本を征服しようとした目的については、詳しくは判明しないのだが(元史の日本伝に有るが)中国友人の見解によれば、
恐らく日本を臣下国として南宋を攻めさせる事に有ったと言う。当時の日本は鎌倉北条氏が権力者で有ったのだが、元の国書の最後の結語には「
兵を用いるに至は、それ誰か好む所ならん」と有って、内容は一見して穏やかで有るのだが、これは脅しで有って、非礼も甚だしく幕府は返書を出さなかったので有る。
これは有りうる話で有ってもしも元に屈し臣下国になれば、隣国の朝鮮半島の高麗の様に、多大な犠牲を払ってまでも日本を攻めねばならなかったのです。(井上靖著波涛に詳しい)鎌倉幕府が断固国書の返事を出さなかったのは正解で有ったのです。
ところが元寇の襲来は文永11年(1274年)10月なのだが、この10月には日本列島には台風は襲来しなく暴風雨は無かったとする説が現われたのです。これは元気象研究所々長の「お天気日本史」を書いた荒川秀俊の説で、お天気博士があらゆる史書を猟色し研究した結果の結論だそうです。
文永の役とは「敵は神風が吹いて壊滅したのでは無く軍議によって自発的に撤収した」と言うのが正しい様です。つまり冬の季節風が吹かないうちに撤退したのです。いま書架されている鎌倉北条九代記をみれば、この中にも自然撤退と書かれていて、後の皇国史観とは異なる様です。
後の弘安の役(1281年)には「敵は大風雨によって兵船悉く沈む」状況では有ったらしいが文永の役には神風等は無かったのです。

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