マッカサー連合国最高司令官が、コーンパイプを咥えて厚木飛行場に降り立ったのは昭和20年8月30日午後2時頃で有った。この日のマッカサー元帥は何故か不機嫌で有ったらしい。その夜から既に戦争犯罪人として、東条英機を逮捕し裁判に掛ける意向を示したと言われる。その為には秘かに幕下の中から人選を進めていたらしい。情報部長エリオット.ソープ准将で有る。ただソープ准将も誰を戦争犯罪人にすべきか、まだ日本の事情に疎く承知して無かったと言われる。
かくして東京裁判(昭和22年5月3日開廷)が始まったので有るが、裁判の前には被告に対する起訴状がなければならないが、これは「平和に対する罪」と言っても良いだろう。ただ結果的には勝った者が一方的に敗者を裁いたものなのです。
さてこの東京裁判では中華民国(現在の中華人民共和国では無い)の「南京地方裁判所検事」が作成した調書が法廷に出されたので有る。この調書は東京裁判を前に急遽作成されたもので(裁判前の22年初頭とも)内容は粗雑なもので検事調書とは成り得ないもので有った。
中華民国側の主張によれば日本軍の第六師団による市民殺害が23万人、第十六師団による殺害が14万人、その他が6万殺害されて合計が43万有ったと主張した。この数字は’80年代になって、現在の中国の教科書に「南京大虐殺」の名前が出た始めてで有るのです。’92年になると「日本侵略軍」が「日本侵略者」と変更され、あたかも日本人全てが侵略したかの如き記述になっている。要するに日本軍から一般人に罪を広める意図が有ったので有ろう。これに就いては、一部日本人の入れ知恵とお聞きしているが誠にケシカラン話なのです。興味半分の日本の新聞記事は「百人切り」等にも発展するのです。
この東京裁判とは別に中華民国が主体の「南京裁判」が南京市でも開かれていて「集団殺害」が19万人「個別殺害」が15万人と主張され合せて34万人有ったと言う。この殺害数は東京裁判にも提出されたのですが、当時の南京市の総人口が20万人(敵前逃亡者とか避難した者が多く)で有ったから、弁護団からは直ぐに反論が出されて証拠としては認められなかったのです。
日本軍が戦った相手はあくまでも毛沢東軍では無く、蒋介石軍で有ったのですが、現在では何故か毛沢東軍にすり替わってもいるのです。最近中国側の資料を読んでみたが、驚いた事に中国少数民族等も日本軍の反日戦争に与していた書き方にもなっている様です。これは追記した作文かも知れない。
南京大虐殺を日本への「外交切り札」としての巧妙な戦略は、エスカレート(最近南京市博物館敷地を拡げた)している様におもわれるのだが、日本の総理大臣が行けば接待工作によって骨抜きに有ってしまう様で、首相は毅然とした態度を示さない様です。
虐殺と言う数字は何人を殺せばその様に言われるのか知らないが、広島や長崎の原爆投下だって大虐殺で有ろう。一人でも、数人で有っても虐殺には違えないのだが、私が以前からブログに書いている様に東京裁判は再審すべきで有ろう。
中国側の主張する数字は、恐らく杭州湾上陸から南京攻城戦までの、中国側の戦死者数の合計を指したものと思われる。日中戦争を通観すれば殆どの戦いは、中国軍の戦争回避(孫子の三十六計の如く)が多いのだが、南京城攻略戦の場合は踏み止まっての戦いになったのです。戦いが始まる前に何故早く退避をしなかったのだろうか。日本軍は疲れていたし食糧も少なかったのです。それを中国人に話したら「侵略から祖国を守ったのです」と叱られたが、それにしても日中間とも犠牲が多過ぎるのです。
注:読売新聞(’08年1月25日)「南京大虐殺記念館」を読んで(加藤隆則上海支局)

0