明治御一新の時「神祇事務所から諸社への通達」が有って、いわゆる神仏分離令が出されたので有る。当時の宗教界は、現在の福田内閣で騒がれている「暫定税率」の騒ぎ以上の混乱が起きたらしい。
いま地方史のそれら御一新の史料を見ると、江戸時代の民間に於ける宗教活動が分かるようです。日本には道教と類似したものに「修験道」が有って、これがなかなか巾を効かせていたようです。以下に明治3年に、地方の修験者から中央の神祇官に提出した行事の可否についての、問い合わせた内容を記してみる。(相馬郷土NO23)
1、家堅、地鎮、火防之事
1、疱瘡経安加持之事
1、日持、月待祭之事
1、星供祭之事
1、幣束ヲ切、七五三ヲ引候事
1、都而諸家加持祈祷之事
1、荒神、窯(カマド)共之事
1、諸社参詣、諸注連禊(ミソギ)之事
右之廉廉、是迄社家、修験取交致候得共、全ク神仏混合之義ニ付、区別可致積ニ候得者
修験之者共、右修行相祭リ候得ハ、何レモ生計失ヒ候義ニ付、此度宜敷御指図下度候也
己九月(明治3年)
若松県
神祇官御中
日本の社寺は神聖な祈りの場でも有ったのです一方では村や町の人々が集う娯楽の場所としても提供してくれたのです。例えば集会場所や市場が開かれたり演劇の上演や出店
や盆踊り等々で有った。これらを主催したのは寺社で有って僧侶、社人、修験者達なので有る。
上の条々はこれまで、宗教行事に対して社家と修験者が共に行っていたのだが、今後は神仏分離令に基づき、分離独立して行う心算だが、それを行うと生計を失ってしまうから、宜しく指図して欲しいと言うので有る。泣きを入れたので有ろう。これに対して神祇官が回答を出して来て、江戸期の日本に於ける宗教行事の一端が分かるのです。
一項目は、家の新築時の時に行う祈祷で修験者は禁止すると有る。
ニ項目は、天然痘の鍛治祈祷は、神祇を祀らずに行いば修験者にも許すと有る。
三項目は、甲子(大黒天)康申(青面金剛)巳待(弁財天)等は、基は正規の神様では無いから、神の名号を唱えなければ仏祭で行う事は良いと有る。
四項目は、日待ち月待ちは、正規の神様で有るから修験者は禁止する。
五項目は、星祭りは神職が係わるべきでは無い。
六項目は、幣束を切ったり七五三縄を引く事は禁止する。
七項目は、加治祈祷は仏事が行う事
八項目は、窯神祭りは修験者は禁止する。仏家が行うと荒神供養と紛らわしいが、取り合えずは許可する。
九項目は、諸社参詣、諸注連、諸御祓は修験者は禁止する。
以上の様なもので有るが、例えば四項目を見ると「日待ち」とか「月待ち」等は、農家等は日とか月を決めて休日にしたらしい。
私の実家は真言宗で有ったが、この神仏分離令が有った時に一時廃寺になり、田畑を耕す農家になったと言う。後に官軍との「和議に功が有った事」が認められ、又復帰出来たと言われる。
中国に於ける宗教界は、あの文化革命時に壊滅的な悲劇を生んだと言われ、寺社は破壊され尽し、僧侶、道士等も重労働に従事したのです。現在見れる寺社はコンクリート造りで有って、装飾は派手で有るが最近復興した物ばかりなのです。中国人の団塊世代(紅衛兵)も言っていたが、何故あの様な振る舞えをしたのか、原因が分からないそうです。

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