我国に於ける源氏姓は中国の遊牧民族国家、北魏(386年〜534)から始まったのですが、平氏姓はどうで有ろうか。
平氏は「将門記」に於いて、将門自身が「将門は巳に柏原帝王(桓武帝)の五代の孫なり」が見えているから、この桓武天皇から始まるのかも知れない。今桓武天皇の皇子達を、国史大辞典の葛原親王で引いてみると、葛原親王の子供達に対し「平の姓を賜りたい」と願い出たが、その時には許されず天長2年(825年)なって「割愛子息、庶拾王号」が有って、要するに庶子は許されず実子のみが下賜されたと言う。
つまり葛原親王(桓武帝第3子)には兄弟が多く居たけれど(平城、嵯峨、淳和の三天皇以外に親王11名、内親王19名、)子供は高棟王と高見王しか無く、この2名が始めて平姓を名乗ったらしい。
しかしながら、この中の高見王は「歳25で亡くなり」無位無冠で有ったと言う。その所為か高見王には子供が一人しか無く、これが高望王で有る。高望王を尊卑文脈脱漏で見ると「寛平元年授爵、賜平朝臣姓」と有る。この平高望の子が「平国香」で、平将門の叔父に当たる分けです。これらを分かりやすく記せば下記の様で有る。
桓武天皇ー葛原親王ー高見王ー平高望(平姓)ー平国香(平姓)ー平貞盛(平姓)
つまり、平姓は葛原親王が望んでいたが、孫の高望になってから正式に名乗った様です。ここで平姓で有るが、色々な説が有るがやはり「平安京」の「平」の一字を賜ったとするのが妥当で有ろう。その源は中国の北魏に有るのです。
ここで「平姓」を再度考察すれば、北魏とは匈奴の鮮卑族が建国したので有り、太武帝(424年〜452在位)の時に、その皇帝の親衛隊として源氏姓を賜ったので有るが、北魏は現在の山西省大同の白登山に有って、ここの皇居(城)を「平城」と呼んだのです。この平城と桓武天皇が遷都した平安京の「平」は同じ意味で、つまりは平氏姓の語源で有るのです。
これ以外に平姓を求めれば、高望王の寛仁元年に「民部卿宗章」を追討した功績によって「平げたので、つまり平姓を賜った」等が有ります。また当時渡来人が来た時に、一時的に囲いの中で、日本の風習や言語習得の為に止まって居たから平姓になった等が有る様です。更には、これは捨てきれない意見で有るが、平将門の叔父で有った平国香(将門の父親の兄弟)は千葉国造家一族と婚姻して千葉氏(司馬)となり、下総の国相馬郡に居たから、朝鮮語的に訛ったのが平姓だと言われる様です。
しかしながら、源氏制度を日本に導入した嵯峨天皇の嵯峨とは、騎馬民族が活躍した山岳や麓を表す言葉で有って、北魏の平城から採用したものに違えないのです。日本の古代政治機構(体制)は、騎馬民族国家の北魏を参考にしたもので有って、道教色が色濃く表れているのです。
なお桓武天皇の事跡を見れば(続日本紀)、早良親王への追贈とか、父君(光仁天皇)の改葬とか、執拗なまでの蝦夷攻撃等々、呪術的な束縛に有った様です。これ等はご生母の百済王からの血が流れているのかも知れない。この様な珍説は如何なものでしょうか。
注
葛原親王は第3子では無く、弟5子とも言われる。(日本系譜総覧、日置昌一著)

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