写真は茨城県結城郡八千代町の「歴史民俗資料館」所蔵品で、許可を得て掲載しています。この八千代町の歴史民俗資料館には、町の民俗資料等を豊富に所蔵していて、それは町民達の文化の高さが感じられるのです。世の中は時間と共に変化しているのですが、過去を知らない者には「未来は無い」のです。古いからと言って棄ててしまうのは、未来を棄ててしまうのと同じわけです。その意味に於いては、この町の民俗資料館は貴重な存在で有るわけです。
さて我国の庚申信仰は、中国の道教思想からの影響が有るのですが、朝鮮半島を経て日本列島に渡来すると、日本文化に染まって日本風に変身するのです。何故ならば、それを利用する者が日本人で有るから当然なのです。
庚申信仰は中国の仙人になる為の、理論とか実修を書いた「道家」の古典とも言うべき「抱朴子ホウボクシ」から採用したしたもので、著者の「葛洪」は晋朝(江南地方の王朝)時代(317年頃)に書いたと言われる。中国と言う国家は、始めは黄河流域に成立したもので、やがては西域の異族に押されて長江(揚子江)流域に新国家の樹立を見たのです。この長江流域の国家群(何度も変わった)と日本列島に出来た「倭国」とは交通が有って(例えば倭の五王)日本とは関係も深かったのです。良く言われる様に「呉服」とは呉の国の服の事で有るわけです。また仏教用語には現在でも「呉音」で音するものが多いのです。
仏教はインドに生まれたので有るが、中国にとっては外来の宗教で有ったのです。中国の宗教は元々は道教で有って、日本への宗教は仏教よりは、道教の方が早く渡来してしていたかと思うのです。特に晋朝等は道教を国教とした時代も有って、東アジア諸国は晋朝の帝政を模倣する事が多かったのです。日本も例外では無く、道教の影響が色濃く残っていて(例えば垂仁紀の常世説、皇極(斉明)天皇の飛鳥岡本宮、平城京等々)その傷痕を探せばいくらでも見付ける事が出来るのです。
しかしながら仏教が渡来すると、教義(経、律、論)に於いては仏教が勝っていたかと思うのです。特に論に於いては「言え負けない論」とか「広め拡大する論」等は道教は見劣りするもので有った様です。
庚申信仰は、元々は道教が流行らしたもので有ったのですが、日本に渡来すると仏教に結び付いたのです。四天王寺の青面金剛や帝釈天等が早かった様ですが、日本古来の神道の方も負けて無く、江戸時代になって記紀の中に「猿田彦」を見つけ出したのです。猿は申(干支)に結び付き庚申の日に利用され、道祖神として猿は性器信仰とも結び付いた様です。動物の中では多用途に向いていると言っても良いだろう。中国の奇書と言われる孫悟空は、道教と仏教の合作されたものと言っても過言では無いのです。
私の故郷である福島県相馬地方にも庚申信仰は有って、庚申の日に掛ける「掛軸」は「カケジ」と略称して呼ぶらしい。やはり猿田彦の絵柄では有るらしいが、神前か仏前なのかは不明とメールで帰ってきた。
八千代町の歴史民俗資料館の担当者のお話に依れば、現在でも庚申信仰の講は行われていると言う。栃木県日光市足尾町には「猿田彦神社」が有って、この神社の創建は古く、神護景雲年間(767年)だと言われる様です。八千代町民はこの神社に参詣し、猿田彦の掛軸を買ってくるのだと言う。福島県相馬地方の「カケジ」は、何処に有る神社から購入したのかは聞き忘れました。

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