奥州相馬中村藩を若干説明する。相馬藩は鎌倉幕府開府に功績の有った源頼朝の重臣で、千葉常胤を祖としている。常胤の二男は千葉県と茨城県の県境に有った、「相馬御厨」を継承したので「相馬」を名乗ったので有る。後には平将門の後裔を名乗り、系図にも取り入れているが、正しくは将門の系では有りません。あくまでも千葉氏一族の派生なのです。北条時代末期になると鎌倉北条氏に追われ、頼朝の平泉征伐時の恩賞として貰った「奥州相馬の地」に逃れ、この土地で幕末を迎えたので有る。戦国大名として伊達氏と五分の争いをし、幕末まで存続した稀有の存在で有った。
この様な相馬氏では有ったが江戸期に起こった数度の大飢饉や、米経済(貨幣経済)の波に曝されて藩は極度の貧乏に陥ったので有る。これを打開する為には、倹約しか思い浮かばなかったので有るが、やがては藩政立て直しの為に藩外との交易や農業振興の道を歩んだので有る。商人と結託し交易の道を歩んだのが「千石船」の建造で有ったわけです。
相馬藩の建造した千石船(廻船に使用した船)は、次の様で有る。
1、己百丸(キヒャクマル)、、、御穀船(主に米を運ぶ)で千石船、伊勢の大湊で造船
2、己千丸(キセンマル)、、、御穀船で千石船、伊勢大湊で造船
3、乾々丸、、、松前(北海道)から魚類や昆布等を運ぶ、600石積で江戸向島で造船
4、永昌丸、、、中古船で函館で購入した。(乾々丸が破船したので代用品)
5、亀友丸、、、御穀船で千石船、伊勢の大湊で造船
6、円通丸、、、乾々丸及び亀友丸が破船したので、新潟で建造した600石船
7、一徳丸、、、御穀船で千石船、伊勢の大湊で造船
8、万来丸、、、盛岡で造船した南部船で150石の小型船
9、聖天丸、、、伊勢の大湊で造船したらしいが石高不明
以上が相馬藩が建造した千石船で有るが亀有丸、円通丸、永昇丸以外は、遭難事故に遭って全て破船している。これらの千石船は藩の息の掛った船で有るが、他にも商人達の資本で造船した船が有って、大天丸(300石積)や住吉丸(300石積)、永保丸(千石船)、勇気丸(石高不明)等が有る様です。これら商人達の船は「お手船」とも言われた様です。
安政三年十月三日の条には、
今日二宮金次郎様御病死との由、が見られますが、幕末時には疲弊した藩の財政を立て直すべき、交易以外にも、二宮仕法を実施して、これも大きな成果を上げつつ有ったのです。つまり相馬藩では交易と農政の二本立てで、改革を進めていたのです。
吉田屋の交易による利益で、藩の財政は大いに潤ったのですが維新時には、二宮仕法を実施した側からは姦商とも迫害され、吉田屋及び本家の鈴木家は財産隠匿を疑われ、家産没収の憂き目に有ったのです。時代は大きく変化してたのですが、その変化への対応が遅れてしまった様です。
注
なお、この吉田源兵衛覚日記は平成の現在「皇太子殿下」にも寄贈され、殿下も読まれたと言われる。

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