1945年8月(昭和20年)とは、日本が世界を相手(除く独、伊)にして戦いを挑み、弾尽きて無条件降伏した年で有る。日中戦争に限って言うなら日本は中国(中華民国)の蒋介石軍との戦いが主で有ったのです。毛沢東軍等は「共匪」とも呼ばれ、農村部を中心としたゲリラ活動が主で有って、時々は出没しても組織的な抗日活動では無かったのです。所謂八路軍兵は約2〜4万人程度いて、後には人民解放軍と呼ばれたので有る。
戦いに勝った蒋介石が言うには「以徳報怨」の文字を以て、日本への怨はチャラにすると宣言したのである。流石は「仁」の国かと思われて、日本人は狂喜したので有る。しかしこの言葉が果たして「仁」の国だったのか、多少の疑問が残るのです。
さて蒋介石も日本への留学が経験が有って、東京の「振武学堂」で二年間の教育を受け、さらに高田の野砲第十三連隊に配属され見習士官になったと言う。要するに最初から武人として育ったわけです。中国では武昌蜂起と言う内乱が始まって、これを機会に中国に戻り軍隊を卒し杭州市の攻略で頭角を現している。
孫文は根っからの革命家では有った様ですが、それは早くから海外で学び視野が広く、清朝を倒さねば中国の夜明けは無いと言う、強い信念が有ったと思うのです。紅い太陽と言われた毛沢東の信念は農に生きたロマンチストな革命家でも有ったのです。蒋介石はどうであろうか、彼は「商」に生きた革命家だった様です。上海には上海証券交易所が有って、ここの仲買人として働いた経験が有って、社会変動の激しい時期を見計らって大いに儲けたと言う。これらが後に夫人となった宋一族との結び付きの始まりだと言う。(浙江財閥)
日中戦争の敵役で有った蒋介石を理解し、日中戦争を識る為には、この蒋介石の「商人」と言う性格を知らねば、真の日中戦争の意味は理解出来ないと思われるのです。
蒋介石の出生には現在中国でも不明な部分が有ると友人が語ってくれた。特に蒋介石が60歳の誕生日に書かれたその伝記には、有ろう事か蒋介石は孔子も憧れる「周王朝の一族」だったと偽作したので有る。家系を飾る為の偽系図は日本にも多く有って、家康もそうだと言うし、地方史研究等も家系自慢の為のサークル化してるものが見られる様です。
それは兎も角として、この蒋介石に対する排斥運動(不正選挙が絡んでいる)はその後峻烈を極め、北伐と言う名の内戦が始まったのです。要するに反共とは標榜しても清朝末の「太平天国の乱」以来の大乱で有ったのです。
これには日本軍閥も指を咥えて見過ごす筈も無く、「日本が中国を征服して治めなければ、いつ又、この様な内乱が始まるかも知れない」と思ったのです。それは余計な御世話と言うもので有るが、とに角も中国各地には日本人が居住していたから、その保護と言う名目で戦いが始まったので有る。日本の言う戦いの大義名分としては弱い様ですが、それを中国友人に話したら「我々は侵略に対する防衛の戦いでした」と即座に睨まれてしまった。
注
清朝末頃には多くの中国人留学生が来日したのですが、彼等は日本語訳した「西洋書籍」を読んで、知識を吸収したと言う。同じ「漢字圏」で有るから、日本語の中の漢字をなぞって、日本文法を覚えれば意味の吸収は出来たわけです。かくして現在中国語には彼等が日本で学んだ単語(日本人の名訳)がそのまま見られるのです。

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