吝嗇で有名な家康の金蔵には金銀財宝が唸っていたと言う。しかるに四代目の家綱(慶安4年)頃からだんだんと痩せぼっそて来たと言われるのです。要するに金蔵は空っぽに近づいたので有る。その原因には色々有るのだが詰まるところは封建制度に有って、米経済に重きを置いた事に有るだろう。
米こそは瑞穂の国の経済的な基盤で有って、米以外に海外との交易が活発化した時は経済も又潤ったので有る。例えば、平清盛等は「宋朝」との交易で富を築いたし、それが朝廷内に食い込み、やがては武士政権の誕生になった分けです。金銭とは政権おも買う事が出来るのです。その例は中国の始めての統治者で有った「秦の始皇帝」にも見る事が出来ます。
江戸幕府は武士と言われる人口の10%程度(ピンからキリまで居るが)の一部の者達が、国家運営に携わっていて、中国の官吏登用試験(科挙)とは大いに異なっているのです。しかし武士とは威張っていても、自活出来る者は極少数の者で有って、江戸の御家人達で有っても「お身見え以下」の者は、カサ張り等の内職等で生きていたのです。
私の生まれは奥州相馬藩(中村藩)と言われ石高は六万石で有った。いま税制を五公五民と言うのは、半分の3万石が殿様のもので、半分が農民のもので有ったのです。殿様の取り分3万石の中から、家臣達に給与として支払うから、殿様に残る分はその又半分で、1.5万石程度で有ったと言う。勿論不作の時や急なもの入りの時は6公4民になる時も有るのです。
いま1.5万石と有う取り分を、大雑把な価格で1石4万円程度とするならば1.5×4万円として、約6億円程度になるわけです。殿様の収入は決して楽では無かったのです。江戸藩邸と言うのは言わば別邸で有るし、ナント言っても参勤交代は多額の費用が掛かるし、殿様同士の付き合いや、お手伝い普請や朝鮮通信使の接待を指名されれば多額の臨時出費を必要としたのです。結局は臨時の出費は課税されるのです。
一方江戸市民は農の生産者では無く米を消費する消費者で有って、長屋の住民達は無税だったのです。(但し、長屋の店賃は有償)江戸市民で一番得をしたのが商人(7%程度居たと言われる)達で有って、彼等は無税でも有ったのです。施政者がそれを見逃す筈も無く、組合を作り冥加金とか運上金等と言う名目で絞り上げていたのです。人類始まって以来、施政者の頭の痛い問題は税金を如何に割り振るかが永遠の課題の様です。ただ、現在の自公民政権の中枢には頭の固い老人が多い様で、この様な100年に一度の不況にも素早い回転が出来ない様です。働き盛りの若い者が舵取りすべきで有ろう。

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