写真は「孫文記念公園」で場所は「広東省中山市」に有ります。中山市は孫文の生まれた故郷で、高速道路(例えば、広州市〜珠海市)を使用し珠海市方面に向かって走れば、中山市内に入って直ぐに大きな看板で「偉人の里」と見えのでわかります。大雑把に言うなら山に囲まれた漁村と言う感じが致します。写真の記念館はそれほど古いものでは有りません。恐らくこの様な姿で完成したしたのは'90年代だったと思うのです。(二階建ての生家と、博物館等も以前から有ったのですが規模は小さかった。)
孫文の生家は祖父の代から土地を持たぬ小作農で、父の代には村の雑役や色々な賃稼ぎで家族を養っていたと言う。又、マカオに出て「靴職人」にもなったらしい。貧しい子供時代だった様ですが三男三女が生まれ(次男と次女は夭折した)孫文は六人兄弟の5番目だったらしい。孫文が生まれた時の父親は54歳だったと言われ、7歳になると学業(私塾に通った)を始めたらしい。三字経とか千字文から始まって四書五経に進んだと「記念館の案内文」に書いて有るが、子供に四書五経が分かる筈も無く、教師の後に続いて素読してた様です。
有る日の事「孫文の母親」は娘(姉)の一人に「纏足」を施術をしようとした時に孫文は猛反対したと言われる。孫文の家系は「客家」の系で、普通客家の娘はは重労働に耐えられないから纏足の悪弊はしないとされています。日本の読者諸君は纏足に就いて興味が有る様ですが、この目的は「あくまでも女性に対する抑圧的なもので性的魅力」に重点をおいたものです。儒学は宋朝の大儒「朱喜」によって、朱子学大成したのですが、ナントこの朱熹も纏足を推奨したので有る。私は朱喜が好きになれない理由はここに有るのです。言う事と成す事が違うのです。少年時代の孫文は「太平天国の乱」の時代では有ったのですが、太平天国の首謀者であった「洪秀全」も客家で有ったから、子供の孫文も血が騒いだと思うのです。
さて孫文は後に(13歳の時)母親と共にマカオからハワイ行きの移民船に乗ってハワイに渡ったのです。これは長兄がハワイでの成功を受けたもので、ここに中国寒村の少年が西洋の教育を受けた始まりで、教会系のスクール(イオラニ.スクール)に入学したのです。その当時は未だ「辮髪とか中国服」で有ったから、級友達にも笑われ腕力で抗議もしている。
注
孫文はクリスチャンでも有ったのですが、やがては中国にもどり官吏の農民に対する搾取と不正や農民達の迷信に悩み、革命家として進んで行くのです。(注:孫中山全集 人民出版社刊1959年)

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