写真は「皇太神宮儀式帳」と言われ、古くは「伊勢大神宮儀式」とか「延歴儀式」等とも称されています。平安時代初期の延歴23年(804年)に、皇太神宮禰宜から神祇官に提出されたもので(文和3年の写本)、その目的は「格式制定」の準備参考としたもので有った。
神祇官(伯)とは上古の官職を言え、左右大臣と並び最高職で有った。その職制は「王族宮内の礼儀、婚姻、卜筮」を司っていた様です。はっきり分かり易く言うなら「天皇家の神事」を、つまり私事を取り扱ったのです。従って、政治向きの事は左右大臣が行い天皇家の私事は神祇官が行ったので有る。もちろん私事とは言っても国家安泰や国家平穏や農耕儀式も含まれます。
恐れ多い事では有りますが、皇太神宮儀式帳を読んでみると、現在の伊勢神宮の成立とか歴史とか建物(宮)の名称、神職の制度等々が簡便では有りますが要領を得た書き方になっている様です。これはひたすら拝して読むのですが、私はこの中に「道教の影」が多々見えるので有ります。
さて神とは中国から来た感念では有りますが、神祇とは天とか地の神々を言うので有ろう。古代の日本に於いては瑞穂の国が始まりで、記紀に見られる神々とはその成立段階に於いて各氏族達の持っている氏神とか産土神等を整理統合して書かれたのです。
日本書記に見られる「一書曰く」が何よりの証拠で有ろうと思うのです。南方より来た話も有れば、北方からのものも有ったに違え無いのです。それを纏めるに当たっては残念ながら、中国の古典籍を利用して書いたのです。仏教史家から読むと天照大神は金光明経からの影響が見られると言うのです。これは宮廷内で神祇官をしていた中臣氏等も日本書記の成立に一役買っていて、研究しても無駄にはならないだろう。
国家と呼ぶ為には法令が有って始めて国家の形になるのですが、日本国内に有る神社の祭祀を重要視したのが官僚機構としての神祇官で有ったのです。一方仏教の始めは葬儀とか寺院、及び外国からの使節接待等を担当していて、これを「玄蕃寮」と呼んでいたのです。ここで「玄」とは法師を指す様です。(漢語大詞典)
我国に於いて仏と神の比重が逆転したのは、奈良時代に聖武天皇が出て東大寺の大仏を建立し自らを「仏の奴」と称した事に始まる様です。これらはやがて「本地垂迹説」になって表れるのですが、これを以て神道も又発展したのでは無く、要するに神道側も何か「理論的」なものを必要としたので有る。何度も言うが仏教には「経、律、論」の三蔵が有って、宗教の形が完備しているわけです。
ところが、鎌倉時代になると「反本地垂迹説」が表れて、神が主で仏が従で有ると言う説が表れて、これが有名な「神道五部書」と言われるものです。これは古説(記紀も含まれる)を寄せ集めたもので有って、現在では「偽書」と認定されています。然しながら「神皇正統記」等に見られる様に、日本は「神国である」等と持て囃されて、近世期まで神道界に大きな影響を与えたのである。神道についてはマダマダ言え足りないが、皇太神宮儀式帳の成立時期等も検討する余地が有るだろう。
注
皇太神宮儀式帳(内宮)と止由気宮儀式帳(外宮)は本来はセットになっています。

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