写真は栃木県今市の「報徳二宮神社」で有る。幕末の農政家として知られる「二宮尊徳」を祀る神社で(二宮尊行及び高田高慶を合祀)二宮神社は他に数か所有る様です。
今市は宇都宮から続く日光杉並木が有る事で知られるが、江戸時代は日光東照宮の神領で有った。日光八十九ヶ村とも言われた様です。
平成の現在では、二宮尊徳(金次郎)の名を知っている者は少なかろうが、小学校の校庭の片隅に「薪を背負いながら本を読んでいる少年の石像」を見たかも知れません。少年の名を二宮金次郎と呼び、読んでいる本は「大学」だと言われる。この少年が後に二宮尊徳と言われ、江戸幕末に於いて荒廃した農村の復興に尽力した者なのです。
農村の荒廃は、そのまま幕府とか藩の財政を極度に悪化させたから、農村の復興が急務で有ったのは当然です。江戸時代は米経済で有ったし(米を江戸に運んでで売り、現金に替えた)高度の経済理論等も知らないから、只管に米に頼ったのです。但し、武士層は米の生産者では無かったし、生産者の農民達を搾取したから、その中間に位置した商人に経済を握られて、武士層も農民もその日に苦しむ貧乏暮らしをしたのです。
二宮尊徳は勤労の人でも有った様ですが、お金の使え方を良く知っていた様です。又、お金がお金を生むと言う経済理論も良く理解していた様です。二宮尊徳の最後の仕法となった「日光御神領の仕法」は、弘化元年(1844年)に幕府の命を受け始まった。二宮尊徳の偉いのは、その実行までに十分な予備調査を行う事に有るでしょう。勿論それを、成功させる為に要する資金の調達等は念入りに行った様です。
日光仕法は「荒地の開発と灌漑掘(二宮堀)」を先に進め、後に二宮仕法を実行にうつした様です。二宮仕法と言うものを、一口で容易く言うのは難しいのですが、お金を投資して耕作地を整備(灌漑とか排水)して、税金を軽くして農民に「やる気」を起こさせると思いば良いだろう。農村復興の為にはあらゆる手段を講じています。平成の現在になって、遅まきながら農業重視の姿勢が見えるのですが、そんな事は二宮尊徳が江戸時代には気が付いて実行したのです。現在の農林官僚達も、再度二宮尊徳伝を読むべき必要が有るだろう。
注
二宮尊徳の伝記は多くの者が書いている様ですが、「二宮尊徳伝」佐々井信太朗著が良い様です。今市の報徳二宮神社には「報徳全書」を納めた石造二階建ての「報徳文庫」が有ります。これは静岡県の鈴木藤三郎の寄贈によるものと言う。誰でも見る事が出来ますが拝観料は300円が必要です。

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