中国語で東洋と言えば日本を指す事が有ります。例えば「東洋鬼」等は、文字の如く余り良い言葉では有りません。中国人で有ろうとも使用してはなりません。東洋とは、普通は「西洋」に対比して使用されますが、亜細亜(アジア)と言う意味にも使用されます。然しながら、その指す地域は非常に広い地域を指し曖昧の様です。
中世キリスト教国から見ると、キリスト教(一神教)を信仰して無い国は全て、東洋とかアジアとも一括して呼んでいる。これ等は傲慢でも有り異質の文化の全てを、対比的に捉まえていたのだろう。
いまアジアと呼ばれる地域を大きく区分すれば、東アジア、中央アジア、西アジアの三地域に分けるのだが、我々日本は東アジアの中に含まれ、朝鮮半島と共に極東アジアとも呼ばれ、また自称もしている。アジアは更に東南アジア(ベトナム、カンボジア、ラオス、タイ等々)等にも区分されているが、中央に座っているのが中国で有った。この中国は他の中央アジアや西アジアに比較して大きな特徴をもっている。(半農、半牧、放牧)
中国文明は黄河流域に誕生したと言われますが、最近では長江流域の考古学発掘調査によって、黄河文明にも負けない遺跡発見が見られます。(水田跡や城壁)文明発祥の地としては、メソポタミア、イラン、インド等のアジア地域の文明とは異なっている。
中国文明が西アジアや中央アジアと接触を持ったのは、紀元前の漢王朝(前206年)時代の「武帝」の時からと言っても良いだろう。もちろん、これ以前から緩やかな交渉が有ったとは思うのです。
歴史は直線的には変化せず、常に緩やかに変化するものです。
漢の武帝の時代になると国力が充実して、中国辺境に位置した遊牧民の「匈奴」を討伐を意図したのである。この経緯は司馬遷の史記に詳しいが、張騫と呼ぶ若者が自ら志願したのです。この張騫の十数年(匈奴の捕虜になった事も有る)に及ぶ調査報告書によって、中国の西方(西域)が開かれたので有る。
張騫が訪れた国は
大イン、康居、大月氏、大夏等(史記)と呼ばれるが、その地域は現在でも詳しくは特定できませんが、アラル海東海岸(西トルキスタン)とか、イラン高原だと言われます。地理的に指せば中央アジアとか西アジア等が含まれて、
沙漠と草原とオアシス及び渓谷の地域で有った。張騫が伝聞した地域には「條支」が有って、これはメソポタミアを表していると中国史家は言っている。
何れにしても、張騫の活躍によって「絹の道」が始まったのですが、中央アジアから西アジアを通じて異質の文明が東アジアに運ばれたので有る。アジアの極東に位置した島国日本にも、それらが流れ着くのは当然です。
注
「絹の道」とは、19世紀にドイツの地理学者が「ザイデン-シュトラッセン.絹の道」と言う言葉を使ったのが始まりだと言う。

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