戊辰戦争に参戦した賊軍及び官軍の記録類は現在でも多く残っている様です。私日記として残っている物も有れば藩の公式記録や、官の太政官の戦績として記録されている物も見る事が出来ます。
一般的に言うなら高級武士層の記録として残っている物は、官民を問わず、理知的では有りますが政治的な配慮も有って、正しい記録とは言え難い様です。戦いには「生死の二つ」しか有りませんから、実際の戦闘になれば正義等は有りません。「死に物狂いで生きる事」それは、敵を殺し我身を守る事の一言に尽きるだろう。実戦が始まる前には威勢も良く、
北の将軍様の様に元気も有るのですが、戦いが始まった時に反省しても既に遅いのです。
下記は、戊辰戦争の東北地方太平洋沿岸部(平潟口の戦い)の実戦に参戦した一兵士の「私日記」の一部分です。内容から見ると相馬藩が官軍に降伏する直前のものの様です。原文はカタカナ混じりの候文ですが、読み易くする為に意訳して有ります。
●7月29日(注:明治元年)
葵の茎を固め居り候。同日、野上村に官軍繰りこみ来たり候、その時、相馬勢少しばかり固め居り候。又官軍来るや否や戦争に相成り候え共、此処も終いに相敵わず大堀辺まで、引き下り候。葵の茎堅めの人数は昼頃まで固め候え共、官軍押し寄せ来らずに因って、浪江町に退き兵糧を遣い候。
その後、小高町まで引き取る心算の処、この時、官軍赤旗を振って葵の茎の下の堤防辺に押し来るを、番兵が見付け鉄砲を二発撃ち掛け候。それより官軍押し来たり候と騒ぎ立て、合戦合い始まり候。我が方にては町尻から大砲を撃ち掛け候。官軍にては堤の処より撃ち始め候え共、段々詰め来たりて高瀬大橋まで大砲を引きて押し寄せて来たり候。
この時の戦いは、相馬勢の戦いにて候えば秘術を尽くして戦いし由、官軍勢終いには相敵せずして鴻の草まで退き候。この戦いは相馬方の大勝利にて官軍の首9個討ち取り候。併し、味方にても即死怪我人是有り。官軍方にも即死怪我人多くこれ有り候の由。
怪我人は鴻の草村の民家に打ち込め焼き捨てと申し候。その日は夜を通して鉄砲を撃ち合いとなり夜を明かし候。
●8月1日
朝より曇りにて五ツ頃より雨降り出し候、いよいよ官軍方は腹を立て浪江町目当てに攻め掛かり候。これより又、双方共に大筒を撃ち掛けて秘術を尽くして戦い候の処、相馬方の大半は日入筒にて雨天にては砲を発し難しく相成るに因って少々引き色に相見え候。略
●8月4日
降参相済み、
敵味方安堵の心に相成り候。(略)
戊辰戦争については祖父や父にお聞きした事が有ります。その時節は雨季(入梅)だった様です。日記にも有る様に、
火薬が湿って大砲も火縄銃も役に立たなかったと言われるます。道は(陸前浜海道と呼ばれ、現在の国道6号線)泥濘み、兵も砲も進退に不自由で有ったらしい。
武士層は陣触れが有った時に「先祖伝来の鎧兜を取り出し付き人に背負わせて」出陣したと言う。流石にこれは邪魔になり戻した様です
。銃で戦うのは潔しとしない風潮が未だ残っていて、鉄砲等は猟師を集めて一隊を組織したらしいが、これが大いに役立ち活躍したらしい。戦後の「
戦功等級と賞誉」には、狙撃隊(猟師)の者が「新地三石郷士召立」等が見られたと言う。
官軍方の兵士は「大豆」を好んだ様で、米は勿論の事「大豆は無いのか」等と要求したらしい。戦後、馬の鞍に米と大豆を二俵積んで官軍に運んだと言う。何れにしては戦いが止んで、賊軍も官軍も安堵したと言うのが本音だったらしい。
北の将軍様も戦争になる前に熟慮する事が必要なのです。

1