私の生まれは福島県の太平洋沿岸に有る寒村で、阿武隈高地と太平洋間に挟まれた細長い平野部になります。ここは耕地は狭いのですが、山や海の幸に恵まれた地域と言う事が言えるかも知れません。但し、出穂の時期になると東北東の冷たい「やませ」が吹いて、その年は必ず「冷害」に襲われるのです。冷害(凶作)が最も酷かったのは、江戸期の「天明の大飢饉」で有ろう。
阿武隈山脈(最高峰で500m程度)はいつ頃かは知らないが、高地と言うらしいが山は深いのです。
この高地には、山の民「サンカ」で住んでいて普段は村里には降りて来ません。「サンカ」は相馬地方では「テンバ」とも呼んでいます。この「テンバ」に付いては、確か民族学者の柳田国男の著作にも紹介されています。但し、あれは高校の某先生が柳田国男に手紙で教えたのです。
注
記憶が正しければ、昭和30年代になると「サンカ」は山を下りて、町が用意した町営住宅に移り住んだ様です。
さて、「山の民」と言うなら、中国少数民族にもいて、その代表が「ヤオ族」と言われ中国南部の山奥には広く分布し住んでいます。
ここで言う「ヤオ族」とは山から山を「焼き畑農業」で渡り歩く者達の事です。従って、一定の土地に住み付いたヤオ族は、やがてはヤオ族的なものを失うわけです。
’09年現在では、中国の焼畑農業は少数民族と言えどもかたく禁止されています。勿論これは自然破壊を防ぎ、地球温暖化を防ぐ為です。従って、現在では真の意味での「山の民」は存在しません。日本には「サンカ」と呼ばれる人達以外にも「木地師」と言われる者が居て、これは「
木地師文書」を持ち、山から山を渡り歩き「木製製品」をつくり生業としていた者がいた様です。中国のヤオ族もこれに多少似たところが有るようです。つまり支配者からの系譜免許を持っていて、この御墨付きが有ってこそ自由に全国を渡り歩き「焼畑農業」を行えるのです。
ヤオ族の男子が盛装した時は、頭のハチ巻にはキジとかニワトリの羽を刺していたのですが、これは中国王朝の武官の印だと説明して頂いた。ならば「系譜免許状」の言語は何かとお聞きしたらそれは漢字だと言う。つまりヤオ族の文化には、漢族文化を多く取り入れて有り「通俗道教」も含まれていると言う。
陽明学を開いた「王守仁1473年〜1528」は儒学者としても有名ですが、彼は明朝時代の人で、かってはヤオ族討伐に功が有った事で知られます。清朝末の「太平天国の乱」には、ヤオ族の首長達も太平天国側の中に多数参加している様です。

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