尾張の国に生まれた織田信長があと20年でも生きていたなら、日本と言う国家も産業革命等も起きて世界のリーダーとして存在したかも知れません。信長と言う男は、日本が生んだ真に革命的で先進的な考えの持ち主だった様です。ただ天才的では有ったのですが、天才にはその裏返しとして狂気も合せ持っていたから、真面目一方の明智光秀が積年(1582年本能寺の乱)の恨みを晴らしたのはに当然で、水が低きに流れる如く自然では有ったのだろう。
さて比叡山延暦寺は天台宗の総本山で、現在で言うなら官製の総合大学の様なもので、言わば東京帝国大学の様な存在で有った。彼等は学問も権威も有るから、僧侶達から見れば、尾張の成り上がり者で有った田舎大名で有った信長等は当然の如く見下していたのだろう。否、恐らく信長と言う「天才と狂気を持った」男を知らな過ぎたと言っても良いかも知れません。桶狭間の戦いで勝利した信長と言う人物を、早くからもっと研究すべきだったのです。
その当時の延暦寺の坊さん達は、学問よりも俗世界に適した様な生活振りで、女色と富の集積に明け暮れていたと言う。従って、現在でも「信長の焼き討ち」は否定的(非難)と言うよりは「よくぞやってくれた」と言う肯定的な意見が多い様です。これは仏教界からの言葉です。
この当時はの日本仏教界は、石山寺(現在の大阪城)に立て籠もった、一向宗の蓮如の様に、信長に盾つく者が多く見られ信長軍に敵対する宗教軍団も多かったのです。信長から見れば、日本統一の為に日夜奔走しているのですから、信長軍団に対して鉄砲を放つ石山門徒や天台門徒等許す筈が有りません。
比叡山門徒に対して突き付けた三ケ条は物凄いもので有った様です。
1、俺に協力するか!
2、協力しないなら中立を守れ!
3、中立を守れないなら汝等は皆殺しにするぞ!
これ等の要求は何とも小気味良い条件で有って、改革者としての信長の真骨頂を表していると思うのです。比叡山門徒達は吃驚した事でしょう。ここでは信長の要求を飲んで中立を守れば良かったのですが、まさか本気で実行するとは思わず黙殺したのです。結果は全山を取り囲み、皆殺し作戦を実行したのです。明智光秀軍等は真面目に実行した様ですが、豊臣秀吉軍は横川(16の谷が有り寺房が有った)の囲みを解放ち逃げる者は全て逃がした様です。
さて、この織田信長の比叡山焼き討ちの歴史的な意味を考えるなら、
この焼き討ちによって、日本に渡来した「仏教の息の根が止まった」と思うのです。宗教団体が権力を笠に着て政治の世界に口出し、一方では「女色と富の集積にうつつを抜かす」時代の終わりを告げたのです。仏教は釈迦時代の様な原始仏教では無く、国家権力と結びついて、民衆に負担をかける「お金の掛かる団体化」と変化したから当然の帰結では有ったのです。
江戸時代になっても仏教は未だ息づいていたとは言っても、それは国家権力の下層に位置したもので
、「寺請制度」にしか生きられなかったのです。この寺請制度の始まりは「キリシタン弾圧」から始まったもので(寛永12年頃に制度化した)寺院はその経済的安定の為には、檀家に対しては様々な負担を掛けて来たのです。

1