中国滞在中には「公開死刑」を見た事が有ります。これに付いては以前にも書いた事が有るのだが、中学校の校庭に市民を半強制的に集め死刑の判決を下すと共に、5分も経たない内に「見せしめの銃殺」を行うのです。当時(1990年7月)の日本のマスコミ等では、その公開死刑については盛んに報道された様ですが、銃殺現場を実際に見た者は少なかろう。死刑判決を受けた者達(25名)の罪状を読んで見たが、確かに重罪者(強盗殺人)が多かった様です。然しながら、我々日本人から見れば「野蛮」としか言え様が有りません。
徳治国家とは
中国は徳治国家と言われ、その徳治とは儒教→道徳第一(共同体)→習慣法の重視→徳治国家と言う事になるだろうか。これを語るには、孔子の生きた春秋時代と言われる紀元前500年以上前に遡る必要が有るだろう。簡単に言うなら、倫理道徳を以って国を治めると言うものです。
法治国家とは
現在の日本に見られる様な、法律第一(中央集権)→成文法の重視→法治国家となるでしょう。ただ、法律一点張りでも息苦しくは有る様です。
我々日本人は現代中国に対しては大きな誤解が有って、中国は「法による国家」と思っている様ですが、法は未整備で有るし、実質的には依然として儒教的な共同体なのです。要するに「罪刑法定主義」が定着してないのです。その延長に「公開銃殺刑」が見られるわけです。凡そ日本の様に近代的な「法治国家」では無く、悪く言うなら「封建風的」な国家組織で有るわけです。法(刑罰)は、政治的犯罪者(政敵)を裁く為に、急いで成文化する事を我々は記憶に新しいのです。
一般的に言われる事は、「法」とはその国に生まれた人々の「共通の処罰規定」で有って、これを無くしては社会の秩序は保たれません。一方現在でも、国全体が共同体組織にとして運営されている中国では、犯罪を犯しても習慣的方法によって立派に解決出来るのです。もちろん習慣法と言うのは、文章化はされていませんが立派な法で有る事には変わり有りません。
その例としては、魯迅の「薬」によって覗え知る事が出来ます。この薬の中には「茶店」が出て来てきます。この茶店で「講茶を飲む」と言うのは、紛争解決の機関の様な役割を担ったのです。茶店には「馬頭卓」と言う特別な席が有って、そこに座れるのは社会的な声望とか信用が有る者が座り、紛争解決の調停員になったのです。そこでの決定は絶対的なもので文章化は有りませんが法として効力が有ったのです。これ等は心底から儒教的な発想が見られるのです。
昨夜(12月24日)鳩山総理の「献金問題」の記者会見を拝見したが「無理を通して、道理の無い」内容で有った様です。この様な道理の無い話が通用するので有れば、救われ無いのは我々国民です。総理に指名される為には、身体検査等の義務化(法)をすべきで有るだろう。

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