郭沫若(カクマツジャク、1892年〜1979)のお名前を知っている人は多いと思う。沫若とは生まれ故郷である四川省楽山県の近くの小河である「沫水又は若水」から採ったペンネームだと教えて頂いた。この郭沫若は日本への留学経験(九州帝大医学部)も有って、日本にも奥さんが居て、名を「佐藤とみ」と言う。佐藤とみとの結婚以前にも、中国には既に妻が有った様ですが、この妻は中国封建制度の名残の「トンヤンシー」と言われる幼童かも知れません。
郭沫若の名を戦後の日本人が知ったのは、中華人民共和国(中国)が成立した当時に「中国科学院長」として突如にして現れた事によると言う。日本への留学時代から、彼は若い血が湧き踊る革命青年でも有った様です。新生の中国で科学院長に就任出来たのは、蒋介石軍の追究を逃れて、千葉県の市川市に10年間滞在し「中国古代社会研究」に没頭した事に有る様です。この時代の日中間には戦争状態に有ったのです。
何故この時期に歴史研究なのかと言うなら、恐らく歴代王朝の興亡を繰り返す事への原因とか反省、そして未来への展望等を知りたいと言う欲求が有ったのだろう。これは日本の歴史学会も同じです。ならばこそ、それは戦後直ぐに歴史見直しが始められ修正されたのです。
注
中央公論社から「偽らぬ日本史」が発行され、神武天皇、蘇我入鹿、平将門、源義経、足利尊氏と楠正成、千利休等の再評価を受けたのです。これは現在でも名著として名高いのです。
いずれにしても郭沫若の日本への亡命時の10年間は全力投球して「中国古代社会研究」に没頭したのです。
彼が書き上げた「中国古代研究」は出版されると高い評価を受け、特にエンゲルスの「家族、私有財産及び国家の起源」を踏まえた体系の目新しさと、史料の裏付けは絶大な評価を受けたのです。要するに近代中国考古学は、この郭沫若から始まったと言っても過言では有りません。新生中国が誕生すると中国科学院長におさまった由縁です。
私が、ブログに援用した「中国古代文明と国家形成」等の論文等は、郭沫若の生誕100年を記念(1995年)して出版されたのものです。
中国考古学は有る日突然の大発見が有って、それまでの常識(成果の積み重ね)が一変する事が有ります。郭沫若が執筆した当時の殷朝と、現在発掘調査でわかった殷朝では多少の食い違えが有るのは止むを得ません。郭沫若は殷朝は「奴隷制度」社会と呼んだ様です。更に農耕社会を認めてはいるのですが、一方では「牧畜民族」と言う考えもあったのです。これらは甲骨文とか金文(青銅器)を検討して考え出された様です。
先ほどの「中国古代文明と国家形成」等の論文は、専門過ぎるから「寝床」に持ち込んでも、5分も経たない内に寝入ってしまう睡眠薬としても有用です。

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