下総相馬氏の相馬重胤が、奥州行方郡の知行地に移ったの理由は、あくまでも相馬家の相続争いに関したもので、そのゴタゴタに乗じた北條得宗家(北條一族の総領家)の長崎恩元が介入した事に有った。
この得宗家が行った悪辣な土地収奪は、東北地方全域に及んだと言っても過言では無いだろう。そもそもの始まりは「北條義時一族」が陸奥守に任じた時から始まったのです。従って、東北地方は得宗家専制を経済を支える重要な拠点ともなっていたのです。東北は「砂金」とか「馬匹」が特産ですから、何としても収奪対象にしなければ成らなかったのです。
我々は、テレビ放映の「水戸黄門」を知っているが、
水戸黄門に先立つ話として「最明寺入道時頼」の廻国伝承等は、得宗家の拡大伸張の為の話として受け取るべきなのです。国情を視察して善政を施した等は偽りなのです。鎌倉末期になると北條氏に関わりの無い郡の地頭職等は余り見られません。東北地方を食い潰す「ダニ」と言っても良いようです。
最も「ダニ」と言うなら平成の現在でも国会内に住んで居るようです。
注
話は逸れるが、水戸黄門の廻国を中国人に話すと、怪訝な様子で聞いているのが印象的です。実際の水戸黄門は、水戸から遠く離れて旅した事も無く「大日本史」編纂に打ち込んだ様です。その尊王攘夷思想は水戸藩を始めとして、混乱のどん底に落としたのです。
この鎌倉北條氏の悪辣な収奪行為が、最終的には「南北朝争乱」の引き金でも有ったのです。北條幕府は新田義貞の鎌倉攻めに破れ、北條氏代々の墓所で有る「東勝寺」に於いて、得宗一族が親子、兄弟が刺し違え283人が死んだとは「太平記」の語るところです。太平記は、足利兄弟が敵味方に分かれて、互いが南朝方に降伏したりする、後半の部分が最も面白い様です。歴史は奇麗事では済まず、現実を直射しなければ、何も得ることが出来い事が良く分かります。
下総に根拠地が有った相馬氏が奥州に下り、奥州相馬氏が誕生したのは直接な理由は得宗家の圧迫から恩賞の地を守る為の自衛手段で有ったのだが、この自衛手段とは、訴訟では埒が明かず武力によったのです。その中心となったのは小高孫五郎重胤で有った。始めに下向した主従13旗とは、孫五郎重胤をキャプテンとして相馬一族や相馬四天と言われた青田氏、木幡氏、門馬氏、須江氏、や岡田氏、佐伯氏、西氏等々の戦闘集団が参加していたのだろう。もちろん荷物運びの者も居たに違えない。
ここで注意が必要なのは、確かに奥州相馬に最初の足跡を残したのは「孫五郎重胤」で有って、
小高町の館(堀内)に入ったのです、しかし、必ずしも「惣領家」とは限らない様です。奥州相馬諸氏の間では、有力者では有っても惣領家とは違えます。やがてはその実力が認められ惣領家として擁立され自立したのであろう。
なにせ相馬諸氏家の中には独立心の有る者も居て、例えば、南北朝争乱時には互いが南北朝に組した者も居るのです。この事は諸家の中には、それぞれの意思で行動している者も居たわけです。例を挙げるなら南朝に与した相馬有村の子息の胤平等がその様です。
奥州相馬氏は戦国時代をしぶとく生き抜いて、福島県内では一人土俵内に残ったのです。不思議な勝ちも有るのですね。

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