写真は二宮尊徳の栃木県「桜町陣屋」です。
撮影は昭和10年頃のものですが、現在では綺麗に整備され傍らには博物館が建っています。なお序に言うなら近くには(車で10分程度)
真宗高田派の専修寺(親鸞)が有りますから、見学するのも良いでしょう。関東の田舎町にしては立派な寺です。
さて二宮尊徳の御仕法は、桜町陣屋を根拠地にして各地に広まったと言っても良いのだが、直ぐ隣の下館藩(現在では茨城県筑西市)でも御仕法が行われたのです。
この下館藩と言うのは石川氏(2万石)の城下町で、天明の大飢饉以降は領村の村々は荒廃の極みに達していたのです。一般的に言って天明の天災、凶作は、藩主をはじめてして支配者側の無為無策が、領民を塗炭の苦しみに追いやったもので、その責任は農民に有るのでは有りません。全国どこを見渡しても「人災」と断言しても良いのです。盗る事ばかりが熱心で与える事が少なかったのです。
下館藩の人口は寛保元年(1741年)には藩内の人口1.3万人居たと言うが、天保年間(1830年〜1843)には約半数に激減したと言われます。平成の現在でも、日本の人口は減少の方向に有って生産減少(景気が悪い)が見られるのです。原因は色々と有るのですが、結局は政治の無為無策に起因してるわけです。
選挙で政治家を選ぶ時は、真に庶民を守る事が出来る者を選ばなくてはなりません。タレント候補等はもっての外と言うべきです。
下館藩からの要請で御仕法を行う事になった二宮尊徳は、時々は指導の為に門人を連れて下館藩にやって来たのですが、止宿したのは親交のある「中村兵左門家」で有った。この中村家には「二宮先生止宿諸掛小払調」が残っていて、その時に支出した金銭出納調が残っている。
嘉永三庚
二宮先生止宿諸掛小払調
十月四日(巴屋藤八より)
○味醂 二百文 ○しい茸 百文 ○山芋 百十文 ○酢一升 八十文
○かつお節 百文 ○川茸 百五十文 ○梨五個 百二十四文 ○蓮根 百七十四文
○鮭切り身 四百文
十月四日
○玉子(二十六個)二百四十三文 ○とうふ 五十文 ○ようかん 三百文
○揚(十)四十文 ○煙草(一本)百六十四文 ○銘酒 四升 ○油揚(十五)六十文
十月五日
○柿三十個 百八十四文 ○いなだ(五本) 六百六十四文 ○生姜 十六文
○銘酒三升
十月六日
○ようかん 百文 ○銘酒(三升) ○たい焼き(一枚) 六百七十五文
十月十日
○銘酒(三升)
十月十二日
○銘酒(三升)
十月十六日
○銘酒(三升)
以下略
現在の奥様達なら、この様な食材でどの様な献立にするのでしょうか。自前料理よりはお客さんが来たら「出前物」とか「レストラン」等に行くかも知れません。
それにしても、二宮尊徳は相当に「
いける口」だった様な気がします。

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