農村は平成の現在でも疲弊困憊が進行しつつ有ると私は感じるのです。原因は少子老齢化社会の現出で、野良で働く者が少なく、しかも働き手の若者達が大都会に吸い寄せられる事に有る様です。大都会と言うのは片隅で有っても、取り合えず食う事が出来て、住む空間を提供してくれるのです。ちなみに東京を見れば分かるように、一目瞭然で益々巨大化し肥大しているようです。地震とか風水害や強烈疫病に襲われたらどうする気なのでしょう。
一極集中は問題が多いから地方分散すべきなのです。。現在の民主党内では、コップの中で嵐がおきているから、そんな事には知恵がまわりかねるのだろう。災害が起きれば、色々と言え逃れや反省はするのだろうが既に遅いのです。
二宮尊徳は北関東地方を中心にして、疲弊した農村の建て直しに取り組んでいたのですが、その疲弊した農村の現出は、享保頃(1733年)から始まって宝暦頃(1763年)になると、人口は知らぬ間に減少の方向に向かっていたのです。その後の凶作による仕打ちが追い討ちをかけて、天保期になると約半数程に減ったのです。
一村がほぼ全廃村の危機も有ったのです。この人口減少傾向と疲弊は、特に関東地方及び東北地方に顕著です。私の生まれた奥州相馬地方も例外では無く、ほぼ半分程度の人口減少で有ったのです。
人口減少とは、納税者の減少ですから、税金に依存し収奪していた武士層も困窮するのは当然です。
注
今さる藩の人口減少を示せば享保年間には、1万余人居たのですが、宝暦頃には約5700人程度まで減少したと言うから、約半分まで減ったのです。但し、江戸期の人口調査と言うのは正確を欠くようです。人口減少は藩、天領代官、旗本等の責任(落ち度)になりますから、幕府に対する報告などは
多少の故意による誤差が有ったのです。
なぜ農村は疲弊したのだろうか、それは上位者であった武士層の収奪が大きく、取る事のみが熱心だったからと言っても良いのです。家康が江戸に開府した当時の、金蔵には金銀が唸っていたと言うのだが、
やがては上下共に風儀遊惰に流れて、気が付けば金蔵は空になっていたのです。経済の基本的な法則(ルール)も知らない時代で有ったし、単純に絞れば水が滴り落ちる雑巾を更に絞ったから、農民は死の一歩手前まで追い詰められたのです。天明や天保の大飢饉が農民を追い詰めたのでは決して有りません。原因は天災に備える知恵が無く人災だったのです。
注
検地と言うのは「太閤検地」が有名ですが、その
太閤検地とは耕地以外(荒野)は対象から外れたのです。今まで戦争に明け暮れていた武士層(非生産者)が、耕地の開墾開発(生産者)を行ったから、上下共に生活が楽になっていったのです。人間は窮屈な狭き門よりは、楽に入れる広い門を好むのです。元禄検地等は根こそぎ検地して寸尺の耕地も見逃さなかったのです。乾いた雑巾を更に絞ったのですが、物理的に言っても水はもう出ません。
江戸期の農村疲弊の大きな原因の一つに「
助郷制度」が有って、この助郷が正しく機能している時は良かったのですが、やがては五街道筋の往来が盛んになると共に、隣村とか隣々村まで助郷の要請が出されたのです。助郷を出す為には10里以上の往復が必要で(農繁期等にぶつかると4〜5日は費やすと言う)結局は、代替としての銭が必要だったのです。
武士層の疲弊の原因には、風儀遊惰(例えば元禄時代)も勿論ですが「参勤交代」も大きかったと言われます。
参勤交代が制度化したのは、徳川家光の寛永12年に出された「武家諸法度」の改定で有った。諸大名の妻子を江戸に常住させ、江戸と領国の間を一年交代で居住させたのです。始めは外様大名だけで有ったのですが、やがては譜代大名まで拡大したのです。在府中は江戸城門の守りとか防火、辻番等が任務だったのです。大名行列とは銭の掛るもので、映画やテレビとは違えます。この制度はやがては幕府そのものを倒壊させる原因にもなったのです。江戸幕府は倒れるべきして倒れたと言っても良いのです。自ら首を絞めたと言っても良いだろう。
かくして二宮尊徳の登場となるのですが、二宮尊徳は「義民」では有りません。あくまでも体制の中に入り農民の立場で改革を進めたのです。やがては水野忠邦に認められ幕吏として登用されたのです。従って、江戸幕府が倒壊すると共に、二宮仕法と言うのは一旦消滅したのです。

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