出典:雑誌「ニュートン」の、2011年6月号から掲載した。
親戚の一人も今度の東北太平洋沖地震では津波に浚われ、犠牲者となった一人ですが、彼は市役所勤めをしてて、防潮堤の水門を閉める為に危険を冒し行ったのが、命取りになってしまったのです。テレビやラジオ等では、必死の津波警報を叫んでいたから、職務上の勤めを果たすのは当然です。平野復興大臣が、同級生の津波による死に、愛惜を込めた意味で「
死んだ馬鹿な奴」と発言をしたそうです。しかしながら、職責を果たす者を、馬鹿呼ばわりする事は私には出来ません。日本の政権与党である民主党は、反日左巻き(労組を主体とする売国奴)政権ですから、愛惜を込めたと言うよりは、案外本音かも知れません。平野復興大臣の指導では、復興はもとより復旧も難しかろう。民主党の先生方の話は軽く、実行が伴いせん。福島県の被災地には、
延べ数百人のお偉いさんが来て、耳に心地よい言葉を聞かされたが、未だ復旧の槌音は聞こえないと言う。
さて忘れもしない3月11日の、東北太平洋沖地震ですが、その前兆と呼ぶべき「前震」は、既に宮城県沖(三陸南部沖)では、3月9日から始まっていたのです。↑図はそれを科学雑誌ニュートンから借用したものです。図でみればわかるように、こんどの本震の前の3月9日にはM7.3の地震が有って、翌3月10日にも同じ地域でM6.8の地震が起きていたのです。この3月10日の地震は、前日(9日)に起きた余震だと判断をしたのは、地震学者だったのです。ナントこの地震こそが、11日の大地震の前の前震だったのです。
1)前震
これは地下のナマズ様が眠りから覚めて大欠伸し、大暴れるをする準備らしい。
2)本震
地下のナマズ様が夢見が悪いとて、大暴れするのが大地震(本震)だと言う。
3)余震
大暴れしたが、未だ機嫌が悪く小暴れするのが、数ヶ月とか数年続くのが余震らしい。9ヶ月経った現在でも、余震は未だ有るのです。過去の地震記録によれば(
安政の大地震等)余震は数ヶ月続くだろう。
要するに、大地震には前震、本震、余震が必ず有って、この前震が予知できれば人命を失ったり、原発の過酷な事故に遭わずに済むわけです。人間は愚か者ですから、過去の記録や経験を忘れてしまい、残念ながら二度も三度も過酷な目に遭うのです。災害は忘れた頃にやって来るわけです。最近、東北太平洋沖大地震後始めての地震学会が大会(静岡市)を開き、今度の地震の検証と反省をしたと言うが、
反省なら猿でも出来て、反省した時は既に遅いのです。東海地震、東南海地震、南海地震に対する予算は多額なのですが、東北地方への予算は僅かしかなく備えも十分では無かった様です。学会得意の閉鎖性と安全欠如と言うしか有りません。
もしも↑図の様な兆候を、本震の前の前震だと
判断する勇気が有って、国民の秩序有る避難が出きれば、今度のような大災害は起こさずに済んだろう。最も津波が来ると放送で知った者が、津波を見に行くとか、写真を撮りに行く者もいて飲み込まれたとも言う。真の勇者では無く蛮勇ですね。
注
あの東北太平洋沖地震は、宮城県沖、福島県沖、茨城県沖の三ヶ所が連動して起きた様ですが、茨城県南部地域(筑波山付近)での経験を言うなら、震度6強でこの世の終わりかと思うほどの揺れでした。あの日は早春で暖かく、日差しも良いから春の草花を買ってきて庭に植えていたのです。植え終わった瞬間、周囲の前後左右の家々の屋敷からは、
野鳥の飛び立つ羽音(どこに潜んでいたのだろう)が聞こえ、大地が揺れだしたのです。庭に立ち尽くし、我が家の屋根のアンテナを見たら、大きく揺れ動き瓦も飛び散る勢いです。揺れは収まるどころか更に激しく揺れ、逃げ場を考えたのですが、周囲の家の倒壊が気になり立ち竦んでいたのです。揺れた時間は1.5分以上だと思われます。揺れが収まって家のに入ってみると食器棚の扉が開いた程度で、特に散乱する事は有りません。(外に置いて有った書庫内の本は散乱した)私一人が留守番でしたが、倅からの安否の電話が有った事で落ち着き、カメラを持ち出し周囲の被害状況を見に出掛けたのです。市内での地震による死亡事故は一件だけで、地震時に車を止めて避難したが、運悪く大谷石の塀が崩れ落ち、下敷きになったと言う。残念無念と言うしか有りません。
にほんブログ村

4