相馬地方(南相馬市小高区村上浜)の海岸一帯も、今度の東北太平洋沖地震では被害を逃れなかった。写真は「南相馬市小高区の海岸」で、夏には海水浴(キャンプ地もあった)で賑わう場所でも有ったから、思い出の場所として、記憶してる者も多かろう。この海岸にも津波が襲来し、原始の姿に戻ったと言う。この辺の姿かたちは、凡そ1万年程の昔に現在のような光景が生まれたと言われます。今度の地震では地盤沈下等も見られ、津波の脅威は辺りを一変させたに違えない。恐らく、写真の松原から市街(海岸から6〜8Km)まで続く豊穣の田園等は、入り江(浦)とか泥濘化しているかも知れません。更には、地震が起きた「3.11」は、奥相の地にも遅い春が訪れた一日で有ったから、農作業を始めた者が、津波の犠牲にもなったと言われます。そこに来て福島第一原発事故ですから、町はゴーストタウンとなっているらしい。ゴーストタウンとは、ある時間から時計の針が進まず、そこには「神も仏」も存在しない完全に「無」の世界と言う事です。
さて、この地方での地震と津波の歴史を遡ってみると、凡そ下記のようなものです。
1)
慶長(1854)の大地震(震源地は三陸沖で、伊達政宗領の被害が記録に見える。)
相馬藩世紀、第一御年譜(利胤)の慶長16年10月28日条には、「
海辺生波にて相馬領の者700人溺死」と有ります。相馬の殿様が、小高(区)町から中村(現相馬市)に移動したのは、翌々月の12月2日だったから、この地震の時は未だ、小高城に在城してたかも知れません。残念ながら、その時の詳しい記録(古文書)は探しても見付からない。
2)
天保(1835)地震(震源地は三陸沖で仙台城の石垣が崩れた。又、岩手県藤沢町でも被害が有った。)
この地震の事は「相馬藩経済略記」の天保6年6月条に見えて、「
大地震その後数日度々也」と見える。この天保年間の相馬地方は冷害による大飢饉とか、大風雨(恐らく台風)とかにも襲われた年で、領民は死ぬか生きるかの瀬戸際に立っていたのです。その原因は畢竟「
役人たる武士層の無策」に有ったのです。現在の民主党の「無策振り」と全く同じでしょう。スピード感も無いのです。
3)
安政年間の大地震(震源地は東海、東南海地震)
この地震の余震と思われる事は「吉田屋源兵衛日記、相馬郷土研究会発行」に度々書かれている。東北地方太平洋沿岸部でも頻繁に余震が有ったものらしい。吉田屋源兵衛と言うのは藩と結託した政商で、商人は情報が命でも有ったから、その日記には地震の事には神経を尖らしていたのだろう。
4)
塩屋岬(昭和13年5月)地震この昭和13年と言うのは、福島県に塩屋岬沖(美空ひばりの唄でしられる)で起きた地震で、M7程の地震で有った。
福島県内陸部でも被害が有って、揺れは福島市、郡山、白河、会津若松辺まで揺れて、しかも揺れは数ヶ月続いたと言う。残念ながら、私は生まれていなかったから詳しくは知りません。この塩屋岬地震こそが、福島県太平洋沿岸部の地震を甘く見た結果で有って、悪魔の福島第一原発とか第二原発を造った大きな原因で有ろう。
恐らく、福島県太平洋沖には大地震とか津波が有るからと
予想し、忠告しても東電は耳も貸さず、ひたすら銭儲けに猛進したのだろう。その証拠は想定震度は600ガル(震度7以上)で津波の高さは5.4〜5.6m程度で有ったようです。何度も言うが、あの原発の地は30mの断崖絶壁で、それを10mの高さに掘り下げたから、15mの津波が来れば一発で終わりです。恐らく、
日本各地の原発等には、それと似たようなものが多く有るに違えない。
現在は、地震の活動期に入っているかも知れません。
富士山麓の地震頻発は不気味です。死んだ振りしている富士山ですから噴火は必ず起きて、地震が起きて大きな被害が出るに違えありません。日本の歴史書を読んでみると「災害の歴史」でも有るようです。
にほんブログ村

5