下の写真は、茨城県常総市(旧水海道市)を流れる「
鬼怒川」です。上流にダムが出来て、更には農業用水とか工業用水等に利用しているから、現在は水量も豊かでは有りません。かって、この町は茨城県では商業都市として県下一の繁栄をしたのですが、それは鬼怒川を利用した舟運(高瀬舟、小鵜飼舟)に有ったのです。舟運で栄えた町だったから、常総鉄道(取手市〜筑西市)が敷かれると共に衰微したのは自然です。現在は、
駅前と言えどもシャッター通りと化している。その大きな理由と言うのは、一も二も無く少子高齢化社会と郊外の大型店舗出現で有ろう。
下の写真は、河岸の位置を示すもので水海道市が遺産として建てたものです。鬼怒川は「衣川」、「絹川」とも言われ、往古(平安時代)から、その両岸では養蚕業が盛んに行われていたようです。これは
桑樹の育成に関係しているようです。桑の新芽は春には芽を吹きますが、時として予期せぬ凍害に襲われます。川辺はその凍害を防ぐのに効果が有ったようです。鬼怒川は又暴れ川としても知られ、一見穏やかに見えますがドンデモ有りません。秋の大雨と台風シーズンとも成れば、堤防の間際に近い大水が出るのです。
見るのも怖いほどの大水です。従って、堤防が決壊すると町は湖水の中に孤立します。
新撰組が好きな者の為に言うなら、この水海道河岸からは副隊長の「土方歳三」が舟に乗って、次の上流に有る「宗道河岸」まで乗っています。鬼怒川の上流は栃木県鬼怒川地域ですが、土方隊は千葉県市川市〜水海道市〜下妻市〜下館市〜宇都宮市(宇都宮城の激戦)〜福島県会津若松を目指したのです。余計な事を紹介しました。
下の写真は、水海道河岸で生きた商人達の
「河岸講」を造り信仰した「水天宮」の写真です。ご覧の様に荒れ放題ですが、河岸が廃れれば誰も見向きもしません。貴重な文化財ですが悲しい事です。旧水海道市豊岡町にも河岸の船頭達の安全を祈る「
金比羅宮」も有るのですが、宮の中は「物置」と化しています。話は飛びますが、中国の「
道教の寺」も文革中は、農民達の物置に成っているのを知っています。
下の写真は鳥居に掛かっていただろう
水天宮を示す額ですが、ご覧の有様です。
この水海道市と言うのは、水海道市と石下町が平成の大合併で「常総市」に成りました。右岸の方は常総台地で、この辺の岸辺には
貝塚や縄文遺跡、古墳群も多く見られます。戦国時代には土豪が支配していたのだろう。旧市街の河岸として栄えた町は、江戸時代初期(寛文年間らしい)になると関東郡代伊奈氏一族が、水海道市付近(旧谷和原村辺)で
台地を削り鬼怒川を開削し、小貝川と鬼怒川を分流させ利根川に流したのです。これより以後は、鬼怒川〜利根川〜関宿から江戸川〜東京湾に舟運が発展したのです。伊奈氏一族は恩人と言っても良いだろう。
注
利根川(大日川)は江戸の町に流れていましたが、徳川家康の関東入部以後、これを千葉県銚子沖に流したのは伊奈氏一族です。その理由と言うのは、1)江戸を洪水から防ぐ2)東北の伊達政宗の侵攻を防ぐ等と言われたが、
最近の研究では江戸への物資輸送の為と言われます。
下の社写は水海道市の天神様境内に有る「一六神社」ですが、この一六とは「一の日」及び「六の日」に市が立った事を示すもので、商人の神様でしょうか。箒が奉納されていますが由緒を知りません。一六神社とは往古の「六斎市」なのだろう。
普通「市」と言うのは、織田信長が奨励した事で知られますが、普通は寺社前の広場とか河原で開かれます。寺社にはそれぞれに縁日が有って、その日は演芸大会等と共に市が立ちます。河原と言うのは「
持ち主が有りません、無税の地」です。誰かが、そこは俺の地だと叫んでも、大水が出れば場所は無散します。従って、人々は安心して物々交換の場としたり、市が立ったのでしょう。ここでも演芸が有った様です。
水海道市の市は、元々は鬼怒川の右岸台地(常総台地)の豊岡町横曽根(
諏訪神社、元横曽根大明神)に有ったのですが、鬼怒川の開削(寛文の頃)が有った以後は左岸に移動し、河岸と共に栄えたと言う。村や町の歴史には、それぞれが変遷の歴史が有るのです。現在の豊岡町横曽根辺では、
赤ちゃんの鳴き声も聞こえぬ村落に成っています。
日本の再生の為にはアベノミクスも必要だが、一も二も無く人口を増やす政策だろう。人口増が無い限り、
やがて日本は挫折する事疑い無しです。福島第一原発事故等は、その点から考えれば責任と罪は重大です。
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