↑は平成18年9月頃に撮影した
常磐線小高駅のものです。東北太平洋沖地震は平成23年(’11年)に発生したから写真は大震災前のものです。中国とは違ってゴミ一つ落ちていない綺麗な駅前でしょう。然しながら、
人間の生きている証(生活臭)は感じられず、左方の自動車が一台なのは寂しいのです。
↑は日本全国の何処でも見られる
駅前の観光案内板です。この周辺にも生活臭は感じられません。中国人が見たら、余りに綺麗さと清潔さに吃驚するだろう。
↑は駅前から続く街並です。大地震による津波は、この辺まで打ち寄せたと言うから驚きます。駅前から東の太平洋までの距離は、凡そ4〜5Km程度だが太平洋の荒波は、往古は防風林の松林で遮られ見る事は出来ません。藩政時代に植えられたと言う松林は、今度の津波で悉く押し流されたから、現在では
駅のホームからは太平洋の荒波が望めると言う。街並の向うは阿武隈山脈が見えるのですが、この日は曇天の雨模様ですから見る事が出来ません。常磐道と言うのは陸前浜街道とも呼び国道では6号線です。小高町は街道の宿場町でも有って、街の中に一本の街道が走っていますから「
褌の町」とも陰口を言われます。産業には特筆されるものは少なく、明治期には養蚕と機織が盛んだったと言う。
養蚕と機織等は時代の趨勢によって暫時衰弱したから、町民の生きる術と言うのは
土壌に適した大根とか、阿武隈山脈の裾野を利用した酪農だけが気を吐いていたそうです。多くの人を養える大中企業は無く、町の発展が阻害していたのだろう。ゴミが見当たらないと言うのは逆から見れば、住人が少ないからと言えるかも知れません。
現在の日本は
全国何処の市町村でも少子老齢化の現出に苦しみもがき、必死に立ち上がろうとしているが(ゆるキャラクター)、若者の多くが大都会に吸い上げられ活力が失われている様です。若者が居て子供達がいてこそが活気が生まれるものです。大地震と津波による苦しみなら未だ救われるのだが、福島第一原発事故による放射能汚染の巻き添い(20Km圏内)が有って、
無人の死の町と化しているようです。このまま放置すれば、太平洋側(東部)の住人や、町中(中部)や阿武隈山脈山麓(西部)の住人達は少子老齢化よりも早く、衰退の一途を辿るだろう。
衰退の一途を断ち切る為の方策と言う決め手は、
働く場所が有って、家族を養い、子供を良い環境で育てる場所の必要が有るだろう。その様に働く場所が有るなら、人は自然に集まるものです。これには資金と場所の提供と税制の優遇等の必要が有るだろう。場所等は探せば幾らでも有るのだし、資金は地方交付税を利用すれば良いし、税制は原発を造ったのは国の責任です。要は「
困った困ったと嘆かずに」町民が一致団結して取り組むのです。衰退を断ち切るには、これしか有りません。重要なのは南相馬市で取り組むのでは無く「
小高区」として取り組むのです。
太平洋に面した今度の津波で壊滅した地域の再生には、津波から守る為の堤防緑地公園を造るべきです。又「
井田川浦干拓地」は自然に返すべきでしょう。干拓等はどの様に守りを固めても、自然を冒涜するもので必ず仕返しを受けるのです。ここは自然公園とかが良くノンビリと釣り等楽しむ場所だったのです。
情報によれば家屋敷の除染が済めば「
耕作地の除染」が始ると言う。元々の小高町は農業で生きたので有って、除染が成功して再び農耕地を取り戻せば、これに勝る話は無いのです。その為の技術的なアドバイス等は、
茨城県筑波研究学園都市に有る農業試験場(農研機構)等が良いだろう。親切丁寧なアドバイスを頂けるだろう。悩み考えるよりは先ずは行動が大切でしょう。尚、農業再生に当たっては「囲い式農業」等も有力な様です。
話が永く退屈だが、4月からの帰還に当たっては「誰かが模範となって率先垂範」すべきでしょう。
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