↑は日中戦争時の除州に向かう日本軍です。除州作戦は
日野葦平の「麦と兵隊」で知られるが麦畑だけの行進で有りません。アノ辺は沃野も見られ交通の要路で大運河も近いのです。蒋介石軍(中華民国)の主力部隊が集結してると言うので大作戦を行ったのです。結果は、敵の逃げ足が早く除州に着いても「蛻の殻」で空振りの三振でした。この逃げ足が速いと言うのは、日中戦争の特徴で蒋介石軍は広い中国大陸を逃げ回っていたのです。良く言うように日本軍の勝ち戦と言うのは大陸の「点」の地点で有って、これを線で結ぶ広い地域を占拠する事は出来なかったのです。
日本軍の大失敗は、中国(支那)とは広大で人口(4億人)も多く、これを占拠するのは無理だった事を理解できなかった事でしょう。当時の日本は先進国で、支那は民度の低い後進国です。然しながら、双方ともに自意識が強く互いに譲らず、戦争の目的がぼやけ不明だったのです。結果は中国大陸での
日本人死傷者は50万人程度になったのです。
私の実兄は海軍の通信兵として上海(
上海海軍特別陸戦隊通信隊)に駐屯していたそうです。未だ若く軍隊では辛い経験をしたようで昔の事は寡黙だった。又、強いて聞く事は無かったが上海駐屯の事は断片的に聞いている。
昭和20年8月15日は太平洋戦争(大東亜戦争の名が相応しい)終結の日です。上海海軍特別陸戦隊通信隊内の通信室では、日本が負けるとは考えても見なかったと言う。但し、米軍の流暢な日本語放送(短波放送)を聞くと、日本の敗色が日に日に感じらたそうです。通信はモールス信号で電鍵を叩いたようですが、その中継は揚子江に停泊する艦船「出雲」だったようです。最近の日本には航空母艦の出雲が誕生しています。
ここで韓国(戦前は日本領土)が言う煩わしい「
従軍慰安婦」だが、上海には「
横浜城」と言う私営の慰安所が有って、ここには100人内外?かと思われる慰安婦が働いていた。国籍は日本、朝鮮、中国籍だった。彼女らの母国は、揚子江の艦船から下船する兵隊さんとの会話で判別できたそうです。
終戦が決まると隊内の朝鮮人籍?の者は知らぬ間に消えてしまったそうです。さて終戦から1ヶ月も経過した日に武装解除が有って、それは重慶(蒋介石軍の首都)から「湯恩伯将軍」の部下達がやって来たそうです。
1)彼等は兵器らしきモノは持たず、
服装は薄汚れた軍服で草鞋を履き、ナゼかは知らないが唐傘を必ず持っていたそうです。
2)日本軍内の
兵舎の電燈が珍しく、スイッチを回し点けたり消したり不思議そうだった。
3)更には兵舎内の水道から出る水が不思議で、これも出したり止めたりしてたと言う。まるで
子供の遊びに似てたと言う。
こんな兵隊さんにナゼ日本軍が負けたのか、納得がいかないと言うのが実感だったそうです。程なく米軍兵士も来て通信室を閉鎖したと言うが、通信機を見て言うには、これは「
時代遅れの通信機」で有って、これでは我々には勝てませんと言われたそうです。
敗軍の将兵は惨めです。日本兵は引き揚げ準備の為に「
浦東島」に送られたと言う。浦東(プートン)とは現在の国際空港の有る場所でしょうか。当時は四方が海に囲まれた島で、壊れ荒れ果てた建物が有って、ここが収容所に成ったそうです。無事に日本に戻れ幸せだった。
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