↑は福島第一原発事故で被災した、酪農家達(20km圏内)が発行した「
被災牛と歩んだ700日」の表紙部です。福島第一原発は福島県の太平洋沿岸部に有って、東方は太平洋で西方は阿武隈山脈で隔てられ、海産物や山の恵みが豊富な長閑な平野部だった。歴史的には、将門の後裔を名乗る、
明治維新まで続く相馬氏の根拠地であった。東京からの交通は国道6号線やJR常磐道が通じている。↑の牧場は、阿武隈山脈から伸びる段丘部を利用したもので、平凡社発行の
「福島県編」等では酪農家が多く牛乳の出荷額が多い事が紹介されている。
福島県は
地形と気象条件から大きく三つに分けられ、太平洋に面した地域は「浜通り」と呼び、県庁の所在する地域は「中通り(国道4号線)」と呼び、幕末に政府軍に戦いを挑んだ「会津(藩)地方」とに分かれている。天気予報は三つ地域でそれぞれが異なっている。太平洋に面した地域には、これと言う基幹産業も無かったから、昭和35年頃から原発誘致が始まり、
愚かにも「悪魔の原発を誘致してしまった」のです。勿論だが、政治家と東電が暗躍していたのだろう。第一原発原発の立地は双葉郡と大熊町に跨り、場所は海に面した断崖絶壁(20m程度)だったが、ブルで掘り下げ原子炉をつくったのです。
海面に近いから津波には滅法弱いわけです。昭和46年3月(1971)に完成し火がともったと言う。
尚、東北地方の太平洋側(陸前浜海道)を北上した時に感じるのは、勿来の関(茨城県と福島県の県境)を過ぎると「海の色が一変し」深い青色に変化するのです。海流の関係かも知れませんが、
この辺からの海の底は「海溝」となって、海は深いのです。言わば地震の巣窟で「
鯰がウヨウヨ」してるのです。大きな地震が起きて当然です。明治5年生まれの祖父の話では「寛政年間」に、大きな地震が有って沿岸部では津波が有ったと言う。
↑は、阿武隈山麓の酪農家の牛舎の柱です。私がお腹を空かせて齧った(食った)ものでは有りません。原発から20km圏内及び放射線量の高い地域(
爆発時は北西の風が吹き、阿武隈山中方面も汚染された)は、立ち入りが法的に禁止されたから、泣き泣き我が子同然の牛達を置き去りし避難したのです。分かれる時は餌と水を山ほど与えたと言う。解除されて帰ってきたら「
ご覧のような地獄絵だった」のです。お腹の空かせた
牛達の悲痛な叫びが、いつでもどこでも聞こえると言う。飼い主は、この写真を
懺悔のために肌身離さず持っていると言う。
原発稼動賛成者の諸氏は、この写真はジックリと目を凝らし酪農家の無念や万に一度の可能性が残る原発事故時の悲惨な状況を想像して欲しいのです。飢餓地獄とは、真にこの事を言うのだろう。これは実態に起こった出来事で、決して坊さんの言う地獄絵では無いのです。
原発稼動賛成者は、牛舎の柱を齧ってみて味わって欲しいのです。不味くて食えないから二度と稼動賛成などとは言わないだろう。
原発立地の市町村は「
必ずしも経済発展はしてないし、少子高齢化社会を脱していない」と言う。一時的な発展は有っても、一歩間違えば「この世の地獄を」味わう事が出来るのです。災害大国の日本列島に原子炉は不向きなのです。大都市圏(東京、名古屋、大阪)等は、電力の無駄を無くすべきです。あんなに明るい夜は不要でしょう。この指摘が間違っていると言うなら、自然は必ず
大都市圏を狙って鉄槌を下すだろう。満期は既に来てるのです。
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