書名:
実験高温度飼育法
著者:
半杭祥盛
発行日:大正6年4月20日
発行所:
福寿館(福島県相馬郡金房村大字大富87番地)
注:
国会図書館で閲覧する事が出来る(請求記号336:916)
↑は、茨城県下妻市の「ふるさと博物館」で展示されている養蚕風景です。下妻市には鬼怒川が流れていて、川辺は養蚕に適した地域だったらしく、養蚕農家も多かったのだろう。養蚕は蚕(虫)を飼って繭から絹糸を得る事に有ります。
日本での養蚕の歴史は古く、弥生時代(埴輪で出土)に遡る事が出来ると言う。その技術は、大陸からの移住者達(記紀にも見える)によって齎したに違えない。
絹糸の用途は公家や僧侶の衣服(墨色)のみならず、武士達の甲冑(絹糸)や装束、馬具、旗等にも使用され、又
絹糸で造った肌着(長襦袢)は「刀では切れず」、戦国の世では大きな需要が有ったと言われます。然しながら、封建社会の養蚕は米つくりを優先させたから、桑園は禁止され、それが解除されたのは明治初期だったようです。蚕の餌は、田畑以外の道路脇とか、山辺とか川辺に生えた山桑のみで飼ったと言う。散歩中に見掛ける山桑等は、そうなのでしょうか。
明治維新後には外国との貿易がようやく活発に行われ、日本からの輸出産業の花形は絹糸(蚕種も有る)だった。昨年の9月に日本列島を襲った「関東、東北豪雨」では、鬼怒川が氾濫決壊しその様子はリアルタイムで放映されました。鬼怒川は暴れ川で過去何度も氾濫決壊したのです。
江戸期に茨城県鬼怒川地域で盛んだった養蚕業は、氾濫決壊の為に桑園が壊滅し、その代替え地となったのは福島県伊達地方(阿武隈川縁)だったと言われます
。↑の「実験高温飼育法」の著者は福島県相馬郡の農家で、福島第一原発の過酷事故が起きた福島県浜通り地方です。明治から大正昭和期にかけて、福島県内では養蚕業も伝播し盛んに行われていたのだろう。
養蚕は農家にとっては現金収入を得る大きな手段で有って、しかも短期間に可能だったのです。養蚕は蚕を飼う事から始まりますが、蚕は昆虫ですから春に成って陽気が温かく成れば桑を食べ成長します。
成長を早める為には、生育中の周囲(室内)温度を温めれば良いわけです。これが「高温飼育法」と言われる所以です。↑の下妻市ふるさと博物館の写真の中には、室内には炉が有って「炭火」を焚いていますが、それは室温を温める為でしょう。温度を温めるとは言っても過度に上げては成りません。適温が有って、それを知る為には寒暖計が必要です。この寒暖計の発明と養蚕とは関係が深く、先人達の苦労が有ったと言う。つまり、
寒暖計の発明によって、養蚕技術は格段に進歩したのです。
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