↑は、大正天皇の近影です。この様なご写真は明治天皇と共に、戦前の東北の片隅の農家の居間にも掲げられていたと言う。先の大戦で日本帝国が惨敗するまで、
「国体の本義は天皇に有り」と言う言葉が、日本国民の間に深く浸透していたのが分かるのです。ここで国体と言う言葉だが、日本全国の都道府県で毎年開催される全国体育大会では無く
、「国の状態、国柄、国ぶり等を言え」中国二十五史の漢書から引いたものです。簡単に言うなら国民の生命財産等は、封建君主(天皇)が握っていると言う事です。
先の日米太平洋戦争での
日本人の戦死者と行方不明者数は、軍人、軍属、市民を合わせて253万3千25人だったと発表されています。(昭和24年4月、経済安定本部)茨城県南西部の地方都市部には「大東亜戦争戦没者慰霊碑」等がソチコチで見られますが、町や村からは必ずと言って戦争に狩り出された若者が多いのです。
お国の為、天皇の為に戦いと言われ帰らぬ人となったわけです。勿論だが、上の死者数には原発投下による死者数や、東京や地方都市への大空襲で亡くなった方も居るわけです。亡くなられた方々にもそれぞれの人生が有った筈だが、残念ながら、殺し合いの戦争で余命を全うする事が出来ませんでした。その様な戦争は、二度と起こしては成りません。
マッカーサー元帥が武器の携帯も無く、無腰で厚木飛行場に降り立ったのだが、ここから戦後の日本の民主化が始まったのです。勿論ですが、占領地日本でのマッカーサー元帥の強烈な指導が無かったら、
平和憲法を標榜する日本の誕生は無かったろう。
1)マッカーサー元帥よる明治憲法(明治22年は発布)の改憲は、
先ずは「近衛元総理(カンパク)」が仰せつかったと言われます。それは戦争責任が逃れる為の情報を得る為に、マッカーサー元帥のもとに訪問した時だったと言われます。欣喜雀躍した近衛元総理は早速に、恩師の高木博士に相談し起案の作成が始まったのです。結局だがその起案は、マッカーサー元帥の裏切りによって陽の目を見ずに終わったのです。近衛元総理は、戦争犯罪人として被告席に座るのを嫌い、青酸カリを飲んで自ら命を絶ってしまいます。尚、近衛元総理が起案した憲法は、明治憲法に変わらず「
天皇が主権者」とした様です。アメリカの意向に沿わないから、反故に成っても当然です。
2)終戦後に幣原内閣(昭和20年10月)が誕生すると内閣が組織され、国務大臣として商法通の松本大臣が就任しました。
彼は近衛元総理の明治憲法改憲作業を嫌い、内閣を中心とした改憲作業に入ります。この草案も近衛元総理とは似たり寄ったりで有って、マッカーサー元帥の意に沿うものでは有りません。占領軍の改憲作業側とは激しい論争が有ったと言われますが、日本側としては「象徴天皇」とか「戦争放棄」等は、思いもしなかったと言う。恐らく、安倍総理の言う改憲とは、「戦争の出来る国にしたい」と言う思惑が有るのだろう。先程の死者数253万人を考えれば、改憲などとは言わない筈です。
3)
民間の憲法学者(鈴木安蔵)及び評論家グループが起草した憲法が有って、これはマッカーサー元帥の腹案には沿う形だったと言う。
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