出典:東京新聞、8月7日(月)朝刊から(雨天、26℃、61%)
8月と言う季節は、日本史上決して忘れては成ら無い、暑くても悲劇の季節だろう。多くの無辜の民が、国家護持と言う名目で死んだのです
。我々の郷土には必ず「大東亜戦争戦没者」等の戦没者碑がソチコチに建っていて、この碑は「二度と戦争をしては成らない」と言う戒めでも有るのです。↑は鎌田慧氏の「本音のコラム」で、多くの若者達に読んで頂きたいのです。戦争ほど愚かなものは無く、多くの悲劇を生み無辜の民は死んでしまうのです。戦争を行うのは一部の金持ち達が、より多くの金を儲けるために行動もので、明治維新以来の対外戦争は、一部の者の「金儲けの為でしか無かったと断言しても良いのです。
若しも、この意見に反対を唱える者が有れば、反論して頂きたい。欧米の(国)から、アジア諸国を開放独立する為等の意見は通用致しません
。安倍総理は、多くの国民が三選に反対してるにも関わらず、総理になって戦争の出来る国(侵略出来る国)にしたい様です。強いて言うなら「国家に対する大反逆者」とも言うべき姿だろう。
千葉県関宿町には「鈴木貫太郎記念館」が有るのだが、この記念館は昭和41年(1966)に旧邸宅跡地に建てられたものです。
入り口には「終戦の詔書」に見る「以って万世の為に太平を開かんと欲す」の意味の「為万世開太平」の看板が見られます。鈴木貫太郎と言うのは太平洋戦争終結時の総理大臣で、終戦に当たっての郷土の英雄として顕彰する為に建てたものだろう。彼の組閣した内閣は「終戦内閣」と、後に呼ばれました。実際には「右手には武器を、左手には平和を」以って臨んだのです。
この鈴木貫太郎(海軍)と言う人物は驚く勿れ「日清戦争時〜日露戦争〜日中戦争〜太平洋戦争」を生き抜き終戦直前(昭和20年、4月7日)に総理大臣になったのです。歴戦の勇士だから天皇の信任が厚かったのだろう。
海軍出身で世界情勢を広く見る事が出来ただろうが、「巨艦の巨大砲艦主義者」で有ったのです。これは空軍を軽視しないまでも、既に時勢には遅れた考えでは有ったのです。巨艦の巨大な大砲一発で、敵を陸前上陸時(九十九里浜)に壊滅させると言う主義者です。既に沖縄も戦力を失い米国による原爆投下(広島には8月6日及び長崎には8月9日)され、
始めて天皇、重臣、閣僚、大本営幹部による最高戦争指導者会議が開かれたのです。この会議を指導したのが鈴木貫太郎総理で、ここで始めてポッタム宣言の受諾の可否を発議したと言う。受諾は「国体の維持」で、これは天皇制を維持出来るのかどうかの可否です。幸いにして天皇制は維持されたのですが、それまでの代償として多くの犠牲が有ったのです。↑は、多くの若者達に読んで頂きたいのです。
但し、
鈴木貫太郎記念館には、終戦時までの多くの悲惨な出来事「沖縄での多くの犠牲者、本土空襲、原爆投下、満州開拓民の悲惨な出来事、遅れた天皇の聖断等々」は語れていません。摩訶不思議な記念館ではございます。
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