↑は。茨城県常総市(旧水海道市)橋本町の八幡宮です。ふつう八幡宮は武家の守護神としてるから、これも水海道で威を張った「田村弾正」が守護してたと言う。
但し、水海道の戦国時代は鬼怒川の乱流地帯に有って、田村弾正の居城跡と言うのは良く存じ上げません。微高地の周囲を水堀等で囲んだ水城だったのだろうか。そこは、どの辺の場所だったのだろう。鬼怒川が現在の様に利根川につながった後には、新田開発に名が有った有力者達が、現在の様な八幡神社を再興と言う。尚、この八幡神社はいつ行っても綺麗に清掃され、清々しいのです。老人達の憩いの場所にすべきでしょう。
↑は
「茨城.栃木の力石、高島愼助著」に紹介されてる「力石」で、この八幡宮の裏手に安置されています。力石としては実に立派なもので、力石としての全てが備わっています。垢抜けした力石と言う事が出来るでしょう。水海道は寛永年間に鬼怒川の流路を開削し(1624〜43)利根川に流したのが運が良く、江戸との舟運が発展し富豪が輩出したのです。但し、水運で繁栄した町は、鉄道の敷設等によって衰退したのは当然です。
さて、この力石だが一体どこからやって来たのだろうか。
茨城県には筑波山とその山系が有って、採石場も見られます。近いから誰でも直ぐに思い浮かぶ分けです。次に考えられるのは、鬼怒川奥の、日光辺からの石でしょうか。舟運で運んだわけです。次は江戸の石大工等に発注し、これも舟運で運んでくるわけです。何度も言うが、水海道には石ころ一つ産出はしないから、必ず他所から運んで来たのです。長いブログは読者は読んでくれません。結論を言うなら、
この力石は町の富豪達が江戸に発注し、奉納したのでは無かろうかと思うのです。
↑は、現常総市豊岡町細野に有る「厳島.愛宕両神社」の力石群(6個?)かと思われるモノです。神社の裏手に並べて有ります。この集落のかっては村祭りが盛んで、景気が良く花火等を打ち上げていたのです。庭前も広く、盆踊り等も可能な場所です。
近所の人にお聞きしたら、私の子供の頃に聞いた話では「若者達が石を持ち上げ力比べをしてた」と言うのです。力石には間違えないと思われるのだが「奉納、重量、寄進者等」の刻印が無いのです。重いから裏返しして確認が出来ません。力石だとしたら、貴重な文化遺産ではございますので、若しもお分かりの方が居れば御一報をお願いしたいのです。宜しくお願いいたします。尚、この石群を、この場所に運ぶのは容易で有って、鬼怒川の西岸にも河岸(三之助河岸)が有った事を追記します。
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