古代の国造として能登地方に君臨した「羽咋国造」は、古事記に依れば垂仁天皇の第10子で有って、磐衝別とも呼び三尾君とか羽咋君の祖だと言う。しかしこれは著者で有る「臣安麻呂」の聞き違えでは無かったかと思うのです。
この垂仁天皇の皇子で有る磐衝別は京の都から悪鳥退治にやって来て、見事に射を落とした時、連れていた犬が羽を食べたので以後地名の「羽咋」になったと言われる。
伝承ではそれでも良いが、もと羽咋氏とは韓(カラ)から海を渡って来た、海洋民族では無かったかと思うのです。つまり渡来人で有る。伝承によれば継体天皇の母君は越の国で生まれて、青年期になると日本海を何度も往復し交易で儲け、語学にも堪能で有ったと言われるのです。このバックには能登の羽咋氏等が控えていたと言う。恐らく継体天皇とは一族でも有るのだろう。羽咋市には大きな墳墓が有って、これを管理してるのは現在宮内庁で有るが、なぜか発掘調査の許可が下りないそうで有る。掘れば日本史を書き換える必要が出るのかも知れない。
東アジアから見た環日本海の写真で見れば分かる様に、朝鮮海峡で無人の舟を流せば海流に乗って、やがては日本海沿岸に到着するそうです。その場合に到着する日本の地域は島根県出雲や石川県羽咋等になるらしい。羽咋氏等もそうした渡来系氏族集団で有り
海洋航海や先端技術で有った製鉄、製塩または湖沼を干拓して農村等を開いたかも知れないのです。
つまり「臣安麻呂」が古事記に書いて有る羽咋君とは、決して垂仁天皇の皇子では無く朝鮮半島からやって来た渡来人だと思うのです。では何故垂仁天皇の皇子と書かれているのかと言えば恐らく古代有力な氏族で有った羽咋氏を古事記を書くに当たって、垂仁天皇の皇子と挿入したのだろう。これを物部氏が先代旧事本紀を書くに当たって、適時に羽咋国造と記したかも知れないのです。
現在、羽咋氏の後としては羽咋氏、羽喰氏、白井氏(ハクイ)、伯井氏、半杭氏、半野氏等見られるが、これらの皆さんは全て渡来系なのだと思うのです。但し、新撰姓氏録には羽咋氏を皇別に乗せているが、本来で有れば諸番(外来系)で有ると思うのです。お叱りを覚悟で話せば、先祖自慢等はこの手の創作が多いので有ります。

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