出典:新風土記「茨城県」、岩波写真文庫10、稲敷郡桜川村「浮島」の光景です。
浮島とは茨城県の霞ヶ浦に浮ぶ「孤島」だった。常陸風土記にも「
乗り浜の里の東に浮島の村有り」と言われて、乗り浜は海苔の生産、
浮島は塩で生業を営んでいたと言う。島の広さは長さが二千歩で広さは400歩なりと言う。写真は昭和30年代のもので、干拓が進んだが、未だ湿地帯が多いと有るから、往古の浮島の様子が理解出来るだろう。尚、この干拓は大正9年頃には始ったと言う。この桜川村で有名なものは「
大杉神社」の大杉で、それは霞ヶ浦を航行する舟の灯台(目印)とも成ったそうです。
この浮島の奈良から平安期にかけての信太郡は、古代の名族物部氏が支配したようですが、平安中期以降には平家一族の「
常陸大掾氏」に代わったようです。保元の乱(1156)の乱で敗れた、源為義の子である義広は下野国に流されたが、後には許されて
八条院信太荘の預所職となって浮島を本拠とした。この裔が後に、源頼朝に叛旗を翻した「志田先生三郎義広」でしょう。
この浮島がナゼかは知らないが、将門伝承と相馬氏(相馬氏には下総相馬氏と奥州相馬氏のニ流が有る)が深く関わってくるのです。先程の浮島の歴史には、相馬氏が関わった事は皆無なのです。今、結論から言うなら、
その全ては虚構の物語で有る「幸若舞曲」に残る「信太」が原形に成っているようです。江戸時代に成って、奥州相馬氏が幕府に提出した系図に、将門を紛れ込ませた事が、相馬氏と将門がシッカリ結び付き、定着し完成するのです。
天慶の乱(935〜940)と言われた、茨城県南西部で公家社会を震撼させた平将門の乱は、将門と言う義侠心に富んだ、戦いに滅法強い強い青年が、
国家に対し反逆し親王と名乗ったから、虐げられた一般民衆は拍手喝采を送ったのだろう。反乱の結幕は悲劇的では有ったのだが、その悲劇が大きい程に多くの者に語り継がれたのだろう。その「語り部」に成ったのは、
乱後に諸国を遊歴した「空也」だったようです。空也の業績は井戸を掘ったり道路に橋を架けたり、道路を整備したりして村人や旅人に便利を計ったようです。この様な事業には空也一人では無く、技術を持った多くの僧達が同道しただろう。
休息時には、仏の話と共に将門伝承を話したかも知れません。この様な話には「尾鰭が付き易く広く伝播」するものです。つまり、将門伝承は、やがては「幸若舞曲の信太」を造る切っ掛けとも成ったろう。幸若舞曲とは、あの信長が舞った「人生50年、、、」を想像すれば良いだろう。家康等も幸若舞曲に対する憧憬が有ったと言う。その正式な上演は凡そ天文20年頃(1551)の室町時代だと言われます。
尚、幸若舞曲の信太の内容は、我々が良く知っている「
山椒大夫」に酷似しています。幸若舞曲を詳しく知りたいなら、街の図書館で「
東洋文庫本の幸若舞」を借覧すれば良いだろう。
続
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