浄土宗の系譜は、平安時代の中期の空也(天禄3年に70歳で没)の他力本願の念仏を唱える浄土教から始まった。次で、浄土教の開祖として法然(源空)が出て、鎌倉仏教の草分けと成った。それを継ぐのが、茨城県や栃木県で布教活躍した「
常陸の国の親鸞」です。もしも常陸国に親鸞無ければ、浄土真宗(一向宗)の隆盛は無かっただろう。加能の国の「百姓が持ちたる国」とか、戦国時代の蓮如と信長の戦いは無かったろう。
親鸞が流罪地の越後から、常陸国にやって来た理由と言うのは様々な動機付けが成されているのだが、現在でもこれと言った確証は得られません。親鸞が関東に姿を現したのは建保2年(1214年)の初夏だとも言われ、
年齢は42歳で妻子を連れていたと言う。他にも同道者が居て、後に二十四輩と言われる、有力弟子の中の一人「性信坊(房)」が居たと言う。上の写真の墳墓は、茨城県常総市(旧水海道市)豊岡町に有る性信坊(房)のものです。昨日(6月23日)散歩がてらに出掛け、蚊に刺されながら撮ったものです。
この性信坊(房)と言うのは、地元の者は「
ショウシンボウ」と呼んでいるのですが、本拠地は、常総市豊岡町の「坂東報恩寺」です。坂東報恩寺と言う名の寺は、東京都の上野駅近くにも有りますが、そもそもの本家はこの水海道豊岡町です。この水海道市豊岡町に有る寺は、現在は西本願寺(お西様)に属しているようで、正しくは下総坂東報恩寺と言うらしい。常総の戦国時代は、茨城県下妻市の「多賀谷氏」と「後北条氏(小田原)」との戦場と成ってしまい、目ぼしい堂宇は悉く焼かれたから、この由緒有る報恩寺も常総の地から江戸に避難してしまったのです。
報恩寺の門前に有る市の案内板です。寺の由緒等が書かれています。この案内板で気に成る事は、正月に行われると言う「俎板開き」でしょうか。菅原道真が生きているわけも無く、この伝承は「
神仏混交」を示すものだろう。
さて親鸞の京の時代は、師の法然(源信)に学び、ひたむきな勉学に励み、真言の阿闍梨を目指し努力したようです。ここで問題に成るのが「
愛欲の圧力に悩む」事です。人間で有れば自然で有って当然の事でしょう。仏教の歴史には儒教から攻撃された歴史が有って、
それは「考」の問題です。親子関係が有ってこその考ですが、それには妻帯が必須でしょう。親鸞は、この問題には相当に悩んだようです。結局は妻を迎えて解決したようです。後に、法然も親鸞も流罪に成った、大きな原因は僧達の男女関係に有ったのです。起きるべきして起きた問題では有るのです。勿論ですが、これには
南都北嶺の僧達が絡まっています。簡単に言うなら勢力争いです。
我々が住む世界は、穢土とも呼ばれ汚れた世界です。然しながら「
心が清らかで有れば、その住む世界と言うのは、全てが清らかに(浄土)成る筈」です。つまり「心浄土」です。その観念は釈迦(維摩経)の時代から有って、時代の推移と共に様々な形で描かれます。心浄土とは、ナカナカに難しい課題では有る様です。
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