将門記と言う戦記文学が書かれたの「天慶3年6月中記之」と有るのを信ずれば、乱の平定後僅かに2ヶ月程しか経ていない様です。作者は勿論のこと、どの様な立場にいた者かも皆目見当が付かない。内容から推して「将門の周囲の者とか従軍僧侶とか京の貴族達」とか、色々と言われるのですが、分かっているのは、仏教とか中国古典とかを良く読んでいた当時の知識人とか文化人と言う事には間違い無いで有ろう。
将門記は我国の戦記文学の先駆けと言う栄誉を担っているが、これは書き出しから生ま生しい戦闘場面から始まっていて、それらの戦闘は「血わき肉踊る」もので、実際にその現場に居た者しか描写出来ない様です。戦闘場面を聞いただけの、想像だけでは書けない様な気が致します。
戦記文学とは言っても、その時代(藤原氏摂関政治)の坂東平野の情勢を見事に活写されていて、やがては平貞盛と藤原秀郷連合軍に、岩井の北山で敗死する事で乱は終わるのです。
さて将門記の作者であるが、私の見解は「作者複数数」に肩入れする者で、これは確たる証拠が有るわけでは無いが、通読すれば前半の部と後半の部で考えた時に「文章の調子」とか「将門に対する作者の接し方」が大きく異なるのです。前半部では将門の縦横の活躍が見られるのですが、後半部になると「女々しい感じ」を受けるので有ります。冒頭に戦闘場面を持って来てので有れば、全編を男らしく貫くべきで有ったのです。
特に将門が死して後に「金光明経一部を誓願しその助けに依る」等は、明らかに僧侶の言え草でも有るだろうが、将門記にはこの様に仏教臭が多々見られるのです。こられは後半部を書いた者の仕業で有るかと思われる。(若しかして僧侶の追記かも知れない)
更に将門記に見られる大きな特徴はれっきとした「漢文」では無い様です。いわゆる和文も入り混じり、中国の「六朝文学」の様な四六駢儷体文を真似た様なのです。文章が簡潔で調子も強い様です。例えば「千年の貯えも一時の災に伴う」等は簡潔だし強い調子の表現なのです。(中国人の友人は、四六駢儷体としては未熟だと言う)
将門記に見られる一つの特徴には、この様に中国古典からの影響が見られる事で、儒教的な倫理精神もあわせて見られる様です。例えば「左伝に言う、徳を貪り公に背き、、、」等は
明らかに儒教的な倫理で有って、将門を無思慮の無い者と言った様です。この様に考えて見ると、将門記の作者の顔は二つの顔を持っていて、作者の複数説が最も妥当かと思われるのです。こんな事を言うのは、施政者側に立っている者しか言えないようです。
注
中国古典には「貞観政要」と言うものが有って、これは唐朝の太宗とそれを補佐した者達との問答集なのだが、この一冊を読めば「世の中を治めれる事が出来る本」とも言われる。将門記の作者は、これも読んでいた様なのです。「蘭花茂らんと欲すれば、秋風これを敗り、賢人明らかならん欲すれば、、、」等は、貞観政要からの引用かと思われるのです。

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