図は茨城県取手市(旧藤代町)内の水戸街道で、昭和40年頃のものだと言う。水戸街道とは言わずと知れた、徳川御三家の水戸光圀(光圀は第二代目)が往還した街道ですが、水戸以北の街道は陸前浜街道と言われます。従って、相馬中村藩主も参勤交代時に利用した街道は、陸前浜街道と水戸街道です。参勤交代が正式に法令化されたのは、徳川家光の治世で、寛永12年(1635年)の
武家諸法度の第二条に書かれています。
「大名、小名は、江戸交代勤務を定める。毎歳の夏四月中に参勤致すべし」。「注:江戸幕府日記」
この法令によって参勤交代が始まった訳ですが、「
妻子は江戸に常住させ」藩主のみが領国に戻れたのです。妻子は人質です。参勤交代、手伝い普請、国替え等では、莫大な費用が必要で藩が疲弊もし、同時に領民も疲弊(ナンノカンノと税金を取られる)するから、江戸幕府倒壊の一因にも有ったのです。270年も継続すれば、明治維新を迎える原因にも成ったろう。江戸時代は
「米経済」ですが。農民から年貢米を取り上げ、それを武士層にサラリー(現物米支給と売却の銭貨が有る)として支払うわけです。但し、江戸近郷の旗本領では領地からの年貢米を貰った。武士層は江戸での市場米価が高ければ良いが、安くても困るわけです。米経済とは不思議な現象が起きるのです。米価と諸物価のバランスが崩れると、どこの藩でも一騒動が起きるのは当然でしょう。
参勤交代は、反面として江戸中央と地方交流の文化伝播にも役立ち、更には水陸交通路整備等でも貢献したようです。
徳川幕府が関東平野に開府してから、約100年程度で、花の元禄時代を迎えるのです。これは戦国時代に戦争ばかりしていた侍達が武器を棄て、新田(湿地帯や湖沼等が多い)を開いた事に有るだろう。日本人は創意工夫の民族ですから、新田を切り開き農具、肥料、営農等の進歩発達によって、生産性が向上したのです。この元禄時代頃までは、江戸幕府の違令も行き届き、幕府の金蔵には金銀が唸っていたと言う。一方
農民達は年貢の納めた後の余剰米を売り、ここから米経済と貨幣経済(銭貨)の両用が始まったのです。
さて相馬中村藩の
参勤交代路の始めは、幕府の指定した「奥州街道(現4号線)」を利用した様です。これは太平洋沿岸部から阿武隈山脈を縦断し、奥州街道に出るコースです。このコースは、福島第一原発事故によって「陸の孤島と化した」、相馬、双葉地方の皆さん方のコースと同じでしょう。藩主の江戸勤務と言うのは、江戸城諸門の警備、防火火消し(大名火消し)、辻番(市中警備)等ですが、到って暇なものです。但し、幕府の中枢に居た者は多忙で有って、役職の老中、若年寄り、奉行(寺社、江戸町、勘定)等は参勤交代は免除されました。尚、御三家には参勤交代は有りません。水戸藩も御三家ですが、水戸藩江戸屋敷と領国の茨城県水戸の往来は頻繁で有って、
街道宿の宿継ぎは多忙だった。特に幕末の水戸藩は、尊王攘夷を標榜して混乱の渦中にも有った大名だから、尚更です。
水戸侍と言うのは、御三家風を吹かし、何処で威張っていて、他藩の者は大名行列でも避けたと言う。
参勤交代は外様大名と譜代大名では、その出発時期が異なります。参勤交代には幕府に対し届け出を差し出して、これには時期とか往還路、員数等々が書いて有ります。
藩の組織と言うのは会社組織と同じで有って、どこの会社にも慰安旅行等の予定表作りが得意で、好きな者が居るものです。相馬中村藩の参勤交代道中に付いては、現在「飯田文書」が見られます。これは水戸街道藤代宿の名主に「飯田氏」が居て、この飯田家が残した記録のようです。
詳しく知りたければ、「
国立史料館、、飯田文書、、相馬」等のキーワードでWEB検索すれば良いでしょう。
参勤交代の日程が決まると、藩には道中見分役がいて、先立って宿泊する本陣を始め宿駅内の設備、道路や橋等の検分をしている。藩主の賄い等は全て持参したから、その荷物も多く、これらは駅宿から人足や馬を原則無償で提供を受けています。実際には賃金等は支払ったようです。相馬中村藩が取手宿で支払った賃金(礼金)は、1両3分だったと言う。宿泊した本陣では、時々は「贈り物」等も有った様です。貰えば必ずお返しが原則です。大名行列ですからケチなお返しは出来ません。この場合は徹底して固辞したようです。
大名行列では
「シタニロ(下に居ろ)」が決まり文句ですが、隊伍を組んで行列するのは宿場への出入りだけで、後はバラバラで行列したと言う。更には、行列の供の者には、その
専門のアルバイトが居たと言う。大名行列の格好を付けるわけです。
参勤交代とは金の掛かる物入りで、
藩は徹底して無駄な経費を排除したと言う。領国に下れば江戸の土産物、江戸に戻れば妻子への土産物が必要だし、幕閣への土産物も必要です。特に幕閣への土産物等は高価な物が多かったし、時には金銭(金貨)等も有った様です。
参勤交代の制度は約220年継続したのですが、文久2年(1862年)になると幕府の権威が失墜すると共に、3年に一度の参勤に変更されたのです。しかも
江戸屋敷の妻子(人質)等も領国に戻れたのです。この頃に成ると、徳川幕府の終焉も近く、元治元年には制度そのものも廃止したのです。幕府に従順なのは東北の小藩だけで、江戸警備にも駆出されたのです。明治4年(1871年)の廃藩置県になると、
今度は華族制度が始まり、大名達の婦女子は東京に集まったのです。これも
有る意味では人質なのです。
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