先日の話。その日は変な日だった。事務所に音楽仲間が来ている時に突然、外から鈍い音とともに犬の悲鳴。
子犬が車にひかれたのだった。あっちゃ〜。
移転してきたこの場所は、大通りから入った場所で結構静かだ。だが小さなお店がうちの斜め向かいにあり、時折子供や学生がたまる。時に事務所の入り口に数人座っていたりする事もあった。お行儀が悪い。
注意するとまあ、素直に聞くのでああ、奄美の子でよかったなあと思う。
でも注意されないとわからない、あまりに周りが見えていないのがわかる。僕はそれが「しつけ」だと思う。
家庭、学校そして社会等の環境でしつけが足りないと思う。
犬をひいたのは女の人だった。パニックしていたので、微力ながら協力した。人はこういうときどう動くのだろう?何が正しいのだろう?特にパニックしてたらわからないし、誰も見ていなかったらそのまま逃げてしまうのが今のご時世ではないかと思った。これが良い社会?美しい日本?
たまたま学生の野次馬が多く逃げるに逃げれない状況だったのは誰にとっても幸いだったといえるかもしれない。
子犬は口に血を含み、しもから多少垂れ流して苦しんでいるが、意識はあるので僕はある程度冷静でいられた。人生の中で数度パニックに陥った事があるが(この間書いたパンク事件もそうだ)冷静というのはとてもありがたい。パニックした人の外にいる時には冷静に判断しやすいのでできるだけ騒がず周りを見渡す癖がある。
当たり前かもしれないが学生を含め回りの大人たちもただの野次馬にしかならなかった。「自分に何かできないか?」と考えてくれただろうか?
テレビと同じ感覚で見物?それが一番怖いと思った。
誰もせめている気はないがこれが現代なのだなあと見てしまった。実は重たかったのは自分の行動かもしれない。昔だったら、もっと親身に(子犬にもひいた人にも)すぐに行動していた様な気がする。
今回間違ったら知らんふりしてただの傍観者、つまり野次馬になってたかもしれないし、気にせず外に出なかったかもしれない。ちっとはまともな教育受けてきたと思ってきた自負は見事にふっとんだ。
かろうじて汚れよけの新聞紙渡して、動物病院の場所教えて、電話番号と名前聞いて(当事者は安心するはず)。でももっとやれたことはないだろうか?
その子犬残念ながら病院に着く前に車の中で亡くなったと後日聞いた。合掌。
誰が悪いのか?子犬は飛び出してきている。周辺には学生がたむろしている。車はどれだけの速度だったのか?目の前には変わるのが遅い信号・・・
これが犬ではなく人だったら当然運転者に大きく責任がかかるのだろうが。
なのでここは要注意地域なのであろう。頭いい人がいたら何か対策をして次を防ぐのだろうが僕はわからない。警察に言ったところで変に警戒がきびしくなり駐車違反の切符が増えるのが関の山だろう・・・ああ、情けない。これが現実、現代。
何もできないのだから自分は力がないと思い知らされる。逆にいえばこんな時に力を発揮できるのが「凄い人」なのではないか?すなわち人の目標である。いっぱい反省でしゅ。この程度でしゅ。
その後ちょっと書けない別の事件が舞い込んできてパニックに近い、呆然とする気持ちを味わった。
なんて日だ!次第に腹が立った。そんな日だった。人生こんな日もあるのだ。
子犬とはいえその命が失われたのである。考えない訳にはいかない。ゲームとは違うのだ。
後日加害者の人と電話で話したが首輪に書いてあった電話に連絡し、病院で待ったが来なかったとのこと。飼い主にも問題あるよなあ。放し飼いにしてたから飛び出してひかれた。だがそれを咎めるだけの車社会なのか?
ドライバーは事故を起こしたらわかる、実はとても弱い立場なのだと思い知るべきだろう。
加害者になると弱いのである。それを理論武装でひっくりかえしても、自分の中に残るのだ。こわ!
運転に「自信」なんてのはないのだ。
特に若い時にはそのマシンパワーを借りて偉くなった様な気がする。そんな機械である。
などと、当たり前かもしれんが、一つの命、身体を前にしたら凍り付く。
文明の発展の足りない部分を考えなきゃ。
新しいパソコンが出た、ふ〜んなんておもちゃ的なのが男の発展なのかもしれない。車もね。
たかが子犬が死んだ話です。でも何かを落として行ったような気がするのは考え過ぎかなあ?
悩んだ時には、「考えが足りないからもっと考えよ」と自分を追い込んできた。
違っていたようだ。そろそろ改革期らしい。
重い腰がちょっとたった。
ワンちゃんのご冥福を祈るととともに知人の回復を願う。そしてこのへんてこな現代からも早く目が覚める事を。

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