2010/9/21

岐阜城  旅行・観光

鎌倉時代初期1201年(建仁元)に幕府政所執事の二階堂行政が金華山頂に砦を築いたのが始まりと伝えられていますが、戦国時代の1509年(永正6年)に美濃守護代斉藤氏が旧砦跡に築いた説が有力です。
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「国盗り物語」として有名ですが、長井規秀が斉藤家を乗っ取り斉藤利政と改名、1542年(天文11年)に大桑城にいた守護職の土岐頼芸を追放して美濃一国を奪います。
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これが一介の油売りから大名まで登りつめ「戦国の梟雄」と恐れられた「蝮(マムシ)」こと斉藤道三の話です。
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1556年(弘治2年)道三は、子の斉藤義龍と争い「長良川の戦い」で敗死。 その義龍も5年後に急死します。
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1567年(永禄10年)、織田信長が義龍の子龍興の時にこの城を攻略して、この地方一帯を平定するとともに井ノ口から岐阜に地名を改めます。
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1576年(天正4年)信長は安土城を築き、家督ともども嫡男信忠に譲りますが、本能寺の変で親子とも倒れ信長の三男織田信孝が城主となるも、柴田勝家と結んで秀吉や兄信雄と争い自刃させられます。
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その後は池田元助、池田輝政、豊臣秀勝、織田秀信等が城主となります。
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1600年(慶長5年)、関が原の戦いで織田秀信は西軍に付き、東軍先鋒隊に攻められ開城、秀信は高野山に蟄居。 翌年、徳川家康により岐阜城は廃城となり天守閣、櫓等は美濃加納城に移されました。
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2010/9/21

岐阜城にリベンジ  旅行・観光

今日は、三年前の9月17日に郡上八幡から辿り着いたものの時間が早く、何処も駐車場が開いておらずに登城を諦めた経緯のある金華山の「岐阜城」へ思い立ってリベンジへ出掛けます。

但し前回の教訓と土地勘の無さの解消の為、今回は名古屋からJR東海道線そしてバスを利用して向かいます。 通勤ラッシュを避けて朝9時過ぎに出発、JR岐阜駅に着きました。
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ここ岐阜駅で目を引くのは、駅ロータリー部分に立つ金キラキンの織田信長像です。
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いくらなんでも金にしなくたって・・・何だかエグイですよ、ねぇ?ヾ(*≧▽)ノ彡

ここからバスに乗り、岐阜公園にあるロープウェー乗り場へ向かいます。
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三年前にはこうやって見上げながら、悔しい思いをしましたっけ・・・ えっ?執念深いって? 三年経ってようやくのリベンジですよ、そんなに責めないで下さい。(; ̄ー ̄A

公園内では信長の居宅跡の発掘調査が進められていました。
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ロープウェーの中から見ると、かなり大規模に行なわれているようですが、今日は休みなのか作業している人影はありませんでした。
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駅前に金の信長像を建てる岐阜県民ですから、いずれ何か建物が建つ事でしょう。o(*≧◇≦)o

ロープウェー駅から少し歩きますが、岐阜城へ着きました。
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岐阜城は別記事にしますが、中は資料館になっていて甲冑が展示されていました。
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複製ですが、中々趣のある甲冑がありました。
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うっかりロープウェーの往復券を買ってしまいましたが、運動不足解消の為には下りだけでも歩いてくれば良かったかな・・・

岐阜公園は、板垣退助遭難の地でもあります。
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岐阜の中教院(現在の岐阜公園にあった建物)にて演説を行った後に襲われ、「板垣死すとも自由は死せず」と言ったとか・・・

三年ぶりの岐阜城リベンジ終了です。
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2010/9/20

仮眠予想の車内装備  旅行・観光

今回の旅行は三連休の最終日、予定は日帰り。 荷物は万一の時用に鞄に詰めた寝袋と着替え程度。
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但し、高速道路の渋滞予想は夜半まで続きそうです。

日頃の疲れが抜け切らずスイマーに襲われて舟を漕ぐ可能性が高いので、車内での仮眠を想定しています。
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荷物が少ない分、車内を広く使えます。

荷台部分の嵩上げ板を装着、搭載したのは段差解消用タオルケット2枚、米軍マット1巻、枕、特に薄い掛け布団1枚です。
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この季節、夜は網戸装着では寒いくらいなので持参しませんでしたが、不要でした。
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2010/9/20

らーめん工房 にこにこ屋  ラーメンその他

津城を見終えたところで早い昼時になったので市内にある「らーめん工房 にこにこ屋」へ入りました。♪( v ̄▽ ̄)
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「みそスタミナらーめん」にチャーシュー2枚をトッピングで注文。 程なく出てきました。ヽ( ̄▽ ̄)ノ

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ハムのようなチャーシュー以外にのっているのは、豚バラ肉、ニラ、にんにく茎、もやし、玉葱、スライスにんにくです。 麺は中細ヨレ麺、スープは薄くて辛い・・・血圧に優しくない味でした。(-'‘-;)

うーん、こりゃ事前調査の失敗だな・・・(`m´〃)
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2010/9/20

津城  旅行・観光

津城は、永禄年間に長野氏の一族の細野藤光・藤敦父子により安濃・岩田両河川の三角州に安濃津城を構えたとされています。
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1568年(永禄11年)織田信長の伊勢侵攻により長野氏は織田に下り、翌年に織田信包が養子となり入城。 信包は15万石を領し城郭を拡充、1577年(天正5年)五重天守と小天守を落成します。
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信包は信長の死後秀吉に仕えますが「朝鮮の役」で秀吉の機嫌を損ね、1594年(文禄3年)丹波柏原に減封、替わりに富田一白が五万石で入ります。

一白の孫信高は1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いで東軍につき、西軍方の毛利秀元・長宗我部盛親軍三万に城を攻撃されます。
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迎える信高軍は千三百人と劣勢であったため苦戦を余儀なくされ、城内の建造物の大半を焼失する奮戦の末、木食上人の調停により開城。
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しかしこの奮戦により戦後、幕府より二万石の加増を受けます。

1608年(慶長13年)信高は伊予宇和島藩に転封となり、代わって伊予今治藩より藤堂高虎が伊勢・伊賀二十二万石をもって入封します。
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高虎は城の大改修に着手し輪郭式の城郭に変貌させ城下町を整備します。 大坂の役の功により加増を受け三十二万三千石となり、藤堂氏十二代の居城として明治維新を迎えます。
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