場所は変わって屯所、裏庭の蔵
気を失っていた浪人は顔に水を浴びせられ、朦朧としながらも意識をようやく取り戻した
が、目を開けようとした時、再び、顔に冷水を浴びせられ、意識がはっきりと覚醒する
「起きたな」
最初に飛び込んできたのは自分を見下ろしている鬼のような殺気を口に咥えた紫煙と共に全身から立ち昇らせている男、土方の憤怒の表情だった
土方の殺気に全身を打たれた浪人は再び、気を失いかけるが、それを察知した土方の合図により、浪人の背を部下が竹刀で思いっきり打つ
痛む背中を容赦なく打たれ、思わず仰け反って悲鳴を上げる
「勝手に寝るんじゃねぇよ」
忌々しげに呟き、歯軋りをしたせいで煙草のフィルターを噛み千切られ、大分残っていた煙草が下へ落ちてしまい、土方は舌打ちをし、新しい煙草を咥え、火を点ける
浪人は沸きあがる恐怖に身体を震わせながら周囲へ視線を走らせた
天井の滑車から垂れる荒縄と鎖、、水が縁まで並々と入れられている大人一人なら十分に沈められるほどの桶、地面に置かれている『算盤』は使いすぎたのか、本来の色の鼠色から紅に変化してしまっている。セメントでおざなりに舗装されている床は『使われる』度に念入りに洗い流されているのだろうが、それでも染み付いた紅の色は落ちず、空気にまで鉄臭さが染み付いたままだった
ここは地獄の獄卒ですら恐れると言う真撰組の『拷問倉』か
浪人はガタガタと震え始めた
ここに入ったが最後、五体満足に出てこられる者は無い、と聞く。大半は警察病院半年安静コース送りになり、後の残りは無縁仏の仲間入り
「そんな怖がるこたぁ無いだろ、おい」
土方は口の端を耳につきそうになるほど、高々と吊り上げて煙草を口から離すと指を鳴らす。部下は浪人を立たせて彼を柱に縛り付けた。
頷いた土方は火の付いた先端を浪人の目の近くまで迫らせる。目に近付く熱気から逃れようとするも、柱に縄で縛られている状態では顔を左右に振るしか出来ない
「ひぃぃぃ」
情けない声を出して股間を湯画の立つ黄色い液体で濡らしてしまった浪人を鼻で笑うと土方は煙草を口へ戻す
「さてと、折角、めったに来れねぇ真撰組の倉に来たんだ
全力で歓迎してやる」
浪人は震え上がった
「良かったな、お前等。総悟がこっちに残ってたら、何されてたか判らねぇぞ
その点、俺ぁ、優しいからよ」
獲物を視界に捕らえた鮫によく似た凶暴な黒い嗤い顔を浮かべた土方は浪人にヘッドバットを食らわす
「じっくり一晩、額と額を突き合わせて話をしようじゃねぇか
特にてめぇらの後ろにいる組織のこと何かよ」
その夜、倉からは阿鼻叫喚が一時も耐えることは無かった。鮮血と恐怖に染まった慈悲を求める悲鳴に応えるのは、餌を求めて屯所の塀の外を歩いていた野犬だけだった
場所がまた変わって、志村家茶の間
肩を貸して近藤を茶の前に通した妙は早速、彼の手当てを始めた
かつて、父親も存命で道場にも少なかったがそれなりの門下生で賑わいを見せていた頃、妙は自然と怪我の耐えぬ師弟の手当てをするようになり、今ではたいていの怪我の処置はお手の物だった
銀時が紅桜や真撰組の内部動乱で重傷を負って帰ってきた際にも、彼女の迅速な手当てがあったからこそ、大事には到らなかったのだ
固く絞った濡れタオルで血を拭いながら、全身の傷の具合を丁寧に確かめていく
九十九発もヘビー級のパンチを無抵抗で耐え続けたのだ、打撲の程度は軽くない、肌は内出血で青黒く晴れ上がってしまっていた
しかし、さすが真撰組局長様だとと言って褒めるべきなのか、ヒビや骨折などは無さそうだった
妙は内心、ほっと安堵の息を漏らした。骨が折れていたり、ヒビが入っていたりしたら、いくら自分でもどうにもできなかった
「近藤さん、ちょっと両腕を上げてください・・・そう、大きくバンザイするように・・・痛かったら言ってくださいよ」
彼女は慣れた手つきで脇の下に小振りの氷嚢を挟んで上から包帯を巻く。しっかりときつく、だが動かすのには不便が無いように。肋骨辺りの青あざに膏薬を貼り、包帯を巻きつける
近藤は妙にされるがままにされていた
妙の家に堂々と上がり、更に怪我の手当てをされて言葉も出ないほどに舞い上がっているのもあったが、さすがに疲労の色も濃く、口の中も切れているのも彼が静かな原因と言えた
にやけるのを必死で我慢をしている近藤の顔をじぃと見つめていた彼女は不意に剃刀を手にした
「・・・じっとしててくださいね」
ぎょっと多少、変形している顔を引き攣らせるも、近藤は小さく首を縦に振った
妙はそっと近藤の顔を固定すると、腫れた瞼に剃刀を横一文字に走らせた
一瞬の痛みに声を漏らすが、近藤は動かなかった
妙は溢れた血をガーゼで拭うと傷を開かないように絆創膏で固定する
「これでしっかりと見えると思いますけど」
「おぉ、お妙さんの女神のような美しい顔がいつもの三倍増しで見えます」
恥ずかしげも無く愛の言葉を吐いた近藤を拳ではなく平手で殴ったのはせめてもの優しさか
「それだけ言えれば元気が戻ったみたいですね。冷たいお茶です、どうぞ」
近藤は妙に頭を下げるとグラスを傾けて痛みで表情を歪めた。慌てる妙を手で制すると、弱々しいが生気の戻った笑みを浮かべる
彼の笑顔を目にした妙は自分でも気付かない内に強張っていた肩の力がふぅと抜けていったのが自然に判った。それに伴って、無意識下に押さえていたらしい涙が一筋、頬を伝い落ちる。慌てて拭うが涙は止まらずに流れていく
自分の涙を目にした近藤は慌てふためき、慰めの言葉でもかけてくるのだろうかと涙を彼から隠した妙は思った
だが、彼女の予想に反して近藤は慰めの言葉など一つも口にしなかった
代わりに、近藤は妙の頭をそっと撫でた
次の瞬間、妙は近藤の胸に飛び込んでいた
岩のように厚い胸板に顔を埋めてきた妙に近藤は一瞬驚いて、彼女の体を押し返そうとしたが、妙は嫌々と駄々を捏ねる子供のように首を横に振った
すると困ったように黒く太い眉を寄せた近藤だったが、決心したように妙を抱き寄せ、彼女の背中を軽く擦った
「大丈夫です。思いっきり泣いて下さい」
その言葉が耳に届いた瞬間、妙は涙を止める事を止めた。自分の顔を近藤の胸に押し付けるようにして声を出さずにしばし泣き続けながら、妙は幼い頃、父の胸で泣き疲れ、眠ってしまった日の事を脳裏の隅に思い出していた
「落ち着きましたか?」
「・・・・・・おかげさまで」
妙は頬にうっすらと残った涙の赤い筋をティッシューで拭い、近藤から顔を背けた
咄嗟の勢いで彼の胸で泣いてしまっただけに、気恥ずかしさで頭の中も小さな胸の中もイッパイだった
「でも、もう私なんかに優しくしない方が良いですよ」
近藤は妙の言葉に眉を跳ねた
「それに、もう『スナック』にも来ない方が良いんじゃないですか?
真撰組の局長はスナックの暴力ホステスに貢いでいる、なんて根も葉もない噂が立ちでもしたら、ただでさえ少ない良縁がおじゃんになっちゃいますよ」
妙の言葉がイマイチ理解できずにいた近藤はますます、困惑顔になる
そんな近藤を見て、妙は更に苛立ちを強める
「折角、私と違って胸もあって、顔も良くて、その上、お金も持っていそうな女性とお付き合いを始めたんでしょ?
私、昼間、見たんですよ」
妙はそっぽを向いたまま、昼間の事を話し出した

1